2007年7月12日木曜日

一字分の空白、無用の隙間

 折々の節目、しばしばわたしのもとに婚礼の招待状と見紛うばかりの大げさな封書が届けられる。おそらく仕事や研究会などで同席し、名刺交換でもしたのだろう。差出人には、見覚えのある法律事務所の名。開けてみると何ということはない。この事務所で新しく業務に従事することになった弁護士の挨拶状であった。二つ折りの厚紙の片方には、事務所の代表者によるこの弁護士の紹介、そしてもう片方には当人の挨拶と抱負が書かれていた。
 こんなご丁寧な挨拶状をもらっておきながら、あれこれいうのも気が引けるのだが、最近、この手の挨拶状を見るといつもあることが気になってしまう。内容のことを言っているのではない。体裁、いやむしろ作法というべきか。わずかはがき一枚程度の短い文面である。しかし、わたしは唯この一点が気になって、一々つまずいているのだ。
 試みに同僚や事務所のスタッフにこの挨拶状を見せ、違和感の有無について尋ねてみると、意外なほどこの点に気づいてもらえない。「この偏屈者っ!」と、こんな声が周りから今にも聞こえそうである。
 わたしのつまずきの原因、それは手紙の文面にしばしば登場する一文字分の空白、無用な隙間。そう、この手紙には句読点—「、(テン)」と「。(マル)」—がないのだ。
 文面を目で追うとき、この空白をわたしは素通りすることができず、その都度何も書かれていないこの隙間に落ち込み、確かに読み取っているはずのこの手紙の文意を、この空白に出くわす度に消去され、何度も行きつ戻りつしながら読まされることになる。もちろん、この手紙に書かれていることと言えば、型通りの挨拶にすぎないわけで、実際上何ら不都合があるわけではないのだが。
 確かに、歴史をひもとくと句読点が用いられるようになったのは明治も後半になってから。日本語にはもともと句読点などなかった。
 つい先日、いわゆる礼儀作法に関する本を手繰ってみた。誰が言い出したのかはよく知らない。見ればいろいろ書いてある。目に留まったのは、改まった手紙は縦書きで書くべきこと、そして、手紙の文章に句読点を打つのは相手に非礼だということ。
 なぜ縦書きでなければならないのかの説明もなければ、逆に横書きの何がいけないのかについても語られずじまい。縦書きとは違って横書きだと相手方に「改まった」感じが伝わらないのは何故か。むしろわたしは、これを問いたい。昔からそうしてきたからか、それが伝統的なかたちだからか。「改まる」すなわち「礼儀の正しさ」は、果たして「古きこと」と同義なのか。また、句読点にしろルビにしろ、相手に読み方を指示するのは相手の無教養を指摘することになるのだろうか。俄には信じがたい理由である。しかし、仮にそうであったとしてもわが国の義務教育の普及や識字率を見れば、このような理由付けが現代において通ずるとは考え難い。今となってみれば、わたしには取って付けたような便宜的な理窟にしか思えないのである。
 殊に慶事の書状には句読点を打つべきではないという。確かに、句点「。」は文章の結びに用いられる。慶事を「結ぶ」すなわち「終わる」というのではいかにも縁起が良ろしくない。しかし、婚礼においては両家が「結ばれる」わけだから、「結ぶ」というのがつねに縁起が悪いというわけでもないであろう。慶弔によって水引の結び方・切り方は違えど、水引はいつもきれいに結ばれているではないか。
 わが国では、モノに何らかの意味や縁起を仮託するということがしばしば行われるが、このことは日本人の詩心にも根ざしており、それ自体決して悪いこととは思わない。しかし、後付けのご都合主義的なこじつけは、伝統の曲解・歪曲としかいいようがない。当然、わたしはこんな説明に説得もされなければ納得もしない。
 確かに、これまでわたしの手元に届いた婚礼の招待状に「縦書き・句読点なし」というのもあったかもしれない。だが、ビジネスに用いる書翰にまでこのような改まった体裁のものが広く用いるようなられるようになったのは極めて最近のことではないだろうか。
 ただ、いくら礼儀作法の本をひもといたところで、わたしのこの嫌悪にも似た違和感を説明することにはならない。では、その原因は一体何に由来するのだろうか。
 先日、ある人への礼状を書いていてふと気づくことがあった。便箋に万年筆を走らせていると、わたしは意外なほど句読点にこだわらないで書いている。書き上げてみると「、」と「。」は、ほとんど打たれていない。だからといって、字それ自体の巧拙は別として、内容を読み通すのにこれといった困難さも感じられない。
 試しにワープロで便箋に書かれた手紙の内容を忠実に—「、」と「。」を端折って—打ち込んでみた。一つ一つの字それ自体の読みやすさにも関わらず、出来上がった文面は息つく暇のない文字の羅列に疲れ、全く読めたものではない。コピーライター・糸井重里氏が一〇年余り毎日更新しつづけているインターネット・サイト「ほぼ日刊イトイ新聞」(http://www.1101.com/index.html)に掲載されている彼のエッセイ(のようなもの)「今日のダーリン」は句読点を用いた文章だが、「、」と「。」以外にも「行かえ」(コンピュータ的には「改行」)を多用している。彼は横書きでメッセージを伝えるための見やすさをあれこれ試行錯誤した結果、このようなかたちが定着したといい、それはメールで使っている文章なのだという(糸井重里『インターネット的』PHP新書)。今でもたまにEメールの文章をまるで原稿用紙に書くかのようにびっしりと書き込む人がいるが、多少慣れた人は文章の途中でしばしば「行かえ」を入れ、いわゆる段落(あるいはパラグラフ)のところでは一行あけたりする。書き上げた文面を見直す際、体裁に由来する読み難さを解消するために、各々が工夫をした結果なのだろう。
 日本語はひらがなにしろカタカナにしろ、また漢字にしろ、マス目にぴったりと当てはまるように活字化され、日本人は幼い頃からこのような枠にはめられた文字を「正しい」とか「美しい」とか思ってきたフシがある。この「正しさ」・「美しさ」は義務教育と印刷技術の普及によって規格化され、一国を覆うようになってしまった。
 このような一字一字マス目の中に文字を置いていくやり方は、「、」や「。」によって一息つかせてもらえなければ読めたものではなく、仮に句読点がしかるべき位置に打たれていたとしても、適当に「行かえ」をしなければ視覚的に相当に辛い。コンピュータの画面であればなおさらであろう。
 それに比べ、手書きで便箋にペンを滑らせるときは相当自由である。毛筆で書かれた古い手紙(消息文)を見ても一文字一文字の大きさはマチマチだし、そもそも原稿用紙のマスを埋めるように書く必要など前提にない。文節など適当な切れ目で行をかえればよいからである。だからといって、意味を取り違えることも読み難くなることもない。
 おそらく、「、」と「。」はマス目を埋める発想と軌を一にしている。だから、マス目などそもそも存在しない便箋に「、」と「。」など必要ない。
 では「、」と「。」がないにもかかわらず、われわれの先人たちはどうやって文の中の区切りを見出してきたのだろうか。今となっては、時候の挨拶にその跡を残すにすぎなくなった候文(そうろうぶん)にそのヒントがある。かつて、書翰文といえば候文であった。先頃亡くなった山本夏彦氏に言わせると、「候」というのは句点(「。」)と同義なのだ(山本夏彦『完本・文語文』文藝春秋)。したがって、時候の挨拶に見られる「......の候」の後に「、」や特に「。」はあり得ない。このように、近代以前の人々は、文の切れ目を文脈や意味に加え、「行かえ」や特定の文字(「候」)によって、そしてきっと(これは推測ではあるが)筆線に見る墨色の潤枯によっても見出してきたのではないか。
 多分、原稿用紙の誕生は印刷技術と結びついている。その証拠に、誰もが見たことがある四百字詰めの原稿用紙の始まりは頼山陽が『日本外史』の執筆のために作らせた赤線罫(けい)の用紙であるいわれている。京都にある万福寺宝蔵院に所蔵されている一切経(大蔵経)の版木も四百字詰め(なお、もう一つの原稿用紙のスタンダードといわれる「ペラ」(二百字詰め)は、これに先立つ江戸中期の考証学者・藤井貞幹の『好古日録』の稿本に既に見ることができる)。
 一般に、マス目の存在は、文字数の的確な把握に役立ち、植字工が文字と文字の連綿を読み間違うことを防ぐ。また、マス目は活字を置く際にその配列やレイアウトを指示し、その出来上がりをある程度イメージすることにも有効である。
 「、」と「。」は、マス目に文字を置くことと必然的に結びつき、マス目を伴う原稿用紙は活字印刷に不可欠な道具であった。
 冒頭のあいさつ状に対する違和感の理由(わけ)が少しずつ解けてきた。元来、手紙は手書きであった。句読点(「、」と「。」)など使わなくてもよかった。だが、印刷技術の登場により活字が使われ始めると、やがて句読点は必須のものとなっていく。現代、マス目に収まることを義務付けられた印刷活字の中に手書きで書かれていた時代の流儀が持ち込まれているこの事態。それがわたしの目には「無意味な隙間」と映り、いい知れぬ違和感の源泉となっていたのではないか。では、わたしがこのあいさつ状に違和感だけではなく、嫌悪さえ感じたのは一体何故か。おそらく、わたしは、この手紙の中に伝統や古きものへの主体的な問いかけを怠り、ただそれを権威として盲従するだけの精神、この表層的な伝統墨守の姿勢と復古主義的な傾向を垣間見たからではないかと思っている。極めて私的な感想・情緒の域を越えるものではないが、世を覆うこの無意識にささやかながら抵抗を試みたいと思い、おそらく誰もが歯牙にもかけないこの問題をムキになって論じ、最近の半ば常識化したこの流儀に一言いっておきたかっただけのことである。