2007年10月20日土曜日

「失言」の構造

 昨今における「語られた言葉」に関する興味深い分析は、現代の「政治と言葉」をめぐる状況について、それが単に政治の質の低下や、個人の資質以前の問題へとわたしたちを導く一つの契機となった。作家の高村薫も、繰り返される失言を前に、言葉を扱うことを職業とする一人の人間の直感として、このことに気づいているようである(東京新聞2007年7月・社会時評)。
 彼女は言う。もとより人間の発する言葉には本心の表明もあれば、本心を偽る嘘もある。受け手は、言葉となって現れたその内容の真偽ゆえに、その言葉に説得力を見いだすのではなく、もっぱら直感的な印象を重視する態度、これが昨今の一般的傾向である......。こうなると必然、政治の言葉に意味は失われ、もっぱら国民の感情をいかに刺激するか、ここに関心が集中する。そして、論理や中身ではなく、好印象と親しみやすさこそがその目的になる......、と。
 近年における政治的発言の顕著な変化を「レポート・トーク」から「ラポート・トーク」への動きと指摘する見解がある(東照二『言語学者が政治家を丸裸にする』文藝春秋、2007年)。「レポート・トーク」というのは、情報の提供を中心に据え、その目的は説得にあるとされる(情報提供型)。従来の政治的発言は、基本的にこの流れに沿うものであった。しかし、近年では、「レポート・トーク」よりも「ラポート・トーク」が重視されるようになったといわれている。これは、聴衆を刺激することで共感を呼び起こすタイプの話し方で(共感惹起型)、情報提供型(レポート・トーク型)の演説にありがちな高所から見下すようなところがなく、同じ目線で語られるのが特徴だ。話しの中に極めて私的なエピソードをとり入れてみたり、地方を地盤とする政治家は話しに方言を織り交ぜたりすることで、効果的な「ラポート・トーク」となり、聴衆からの共感を手に入れる。
 確かに「ラポート・トーク」は今風である。いわゆる「ワン・フレーズ」もこの延長線上にあると考えられる。このような言葉をめぐる環境の変化とその先にある「ウケ」重視の姿勢が「習い性」(高村薫)となった政治家は、悲しいことに「失言」を連発する。
 では、政治的には一定の力を発揮した「ワン・フレーズ」と「失言」の境目は一体どこにあるのだろうか?よく考えると、一定の発言を「失言」と決めつける論理は案外はっきりしていない。結局は、漠とした社会通念を頼りにせよということであろうか。発言の内容が、本心の表明であれ、本心を偽る嘘であれ、その場の空気を読んで発言せよということだろうか。最近、「KY(空気が読めない)」という奇妙な略語が巷間を流布したが、この「空気」こそ過去に多くの過ちをおかした原因ではなかったか。世間が「失言」と名指ししたからといって、わたしはこれに乗じて政治家の不見識を批判するつもりはない。むしろ、公共的決定に携わる政治家の発言は、そのときの「空気」に左右されるようであってはいけないのだ。
 ただ気になるのは、最近の失言は、確信犯的な信念の発露でもなく、熟慮の末の発言でもないということである。自らの発言に責任をもつのであれば、反論こそすれ、謝るべきではないはずだ。すぐに頭を下げるというのは、自らの発言に信念も熟慮も持ち合わせていないということの証である。
 信念と熟慮に導かれた言葉は、多くの場合失言にはならない。それらは、インパクトや「ウケ」とは本来無縁のものだから。むしろ、それこそが、かつて山本七平が指摘した「水を差す」言葉になり得るものであり、無責任に醸成された「空気」を「通常」に立ち戻らせる言葉になるはずだ(山本七平『空気の研究』文藝春秋、1983年)。