2007年9月6日木曜日

失言は資質だけの問題か---「政治と言葉」をめぐって

 ここのところ「政治と言葉」をめぐり興味深い分析を行う著作の刊行が相次いでいる。いずれも国民の圧倒的支持を五年の長きにわたり集め続けた前政権の、しばしば「ワン・フレーズ・ポリティクス」と揶揄されながらも存分に発揮することとなった「言葉の力」というものに、研究者たちの関心のアンテナが敏感に反応した結果であろう。
 確かに、ある政治家の生い立ちやそこで育まれた思想、またはその政治的発露としての政策をわれわれはしばしば目にするし、これらを記した文献も少なくない。だが、こうした「書かれた言葉」に比べると、議会や街頭において日々行われ、しばしばわれわれの情緒をかき立てずに置かない、そして時として些末な議論へと誘い、場合によっては誤った方向へ導くことすらある「語られた言葉」の分析は、プラトンやアリストテレスの昔から政治家の生命とされてきたものであるにも関わらず、昨今、性懲りもなく繰り返される「失言」をめぐるジャーナリスティックな取り扱い(たとえば、保坂正康『戦後政治家暴言録』(中公新書ラクレ・2005年)がまとまっている。現政権についてのものでは、東京新聞2007年7月21日朝刊特報部の記事が詳しい。)を除けば、わが国でついぞ目にすることはなかったように思う。
 次回以降、見て行くことにするが、戦後政治に限ってみても、言語ないし言葉をめぐる環境の変化は否定しがたく、このような指摘はジャーナリズムによる直感的ないし情緒的な反応にとどまらず、ここに来て政治学や社会言語学の視点から、ある程度実証性を伴ったかたちで整理・検討され、明らかにされるようになった。
 ここでいう言語環境、言い換えれば「言葉をめぐる環境」とは、この社会と時代を動かしている人々の一群の言語感覚に他ならない。無論、言葉は発するものである以上、受け手の存在があって成立するものである。したがって、国民の支持をわしづかみする巧みな言説も、その支持を一夜のうちに消滅させる失言も、単純に政治家本人の資質のみに還元されるものではないはずだ(日々マスコミの報道にあるように資質に疑問符が付く者が多いのも否めない事実なのかもしれないが......)。むしろ、受け手の意識や資質も問われなければならず、いわば構造的な問題として把握する必要がある。
 確かに、いわゆる「失言」の類を政治家の資質の問題として済ますのは簡単である。しかし、それでは「政治と言葉」の問題の一端の、しかもその表面だけしか捉えていないことになる。逆に、言葉を巧みに用い、自らの政治的意図を成功裡に導いた者に対する評価も単なる「資質」の問題として片付けられてよいのだろうか。言葉巧みで、プレゼンテーション能力に富み、よいイメージが伴っていても、政治的な成功が保証される訳ではない。「資質」とは異なるもう一つの次元にも目を向ける必要がある。
 わたしを含め、日常の些事にあくせくしている人間は、問題の一端をとらえてわかった気になってしまう。この件についても、よもや自ら属する社会や時代の言語環境にまで思いを馳せることなど夢にも思わないのが普通であろう。
 実施に移された政策の当否についてはいまだ議論が分かれるところであるが、われわれの感覚や意識をも巻き込む看過されがちな言語環境の変化に今さらながら気づかさせてくれたこの一点だけを見ても、前政権の功績は大であるといえる。というのも、今ある言語環境の的確な把握こそが、わが国の民主制の深化に不可欠であると考えるからである(つづく)。

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