近頃、自分が大学の最寄り駅から三田に向かう経路をわずかに変化させていることに気がづいた。仲通りを抜け、突き当たった三田通りを右折し、東京タワーに向かって歩く。そして、幻の門(東門)をくぐる。これが、いま、三田のオフィスに向かうわたしのルートである。
しかし、これまではそうではなかった。
改札を出、第一京浜を跨ぐ陸橋を渡り、階段を下りると左に直進、聖坂の三叉路まで来たところで右前方に進んでいくと国道一号線にぶつかる。それをわたれば正門である。二十年近く、ずっとこのルートで通ってきた。なんということはない。わたしのオフィスに行くにはこちらの方が便利だからだ。
無意識のうちにも、わたしのこの二十年にわたるささやかな習慣に変更をもたらしたのは、正門の先に横たわる南校舎の取壊しと新校舎(未来先導館〔仮称〕)の建設であった。いま、三田の正門を入ると、目の前に大きな工事中の壁につき当たる。だから、右の方へ、新図書館の裏手あるいは福澤庭園の脇を大きく迂回しなければ中庭・大銀杏の前には出てこれない。距離的にはどうかわからないが、心理的にはずいぶん遠回りさせられた気分になる。東門を選択してしまうのは、心理的な距離感を無意識に織り込んでいるからなのかもしれない。
現在、進められている新校舎の建設は、ご存じのように慶應義塾創立百五十周年記念事業の一環である。ちなみに、取り壊された南校舎は創立百周年を記念して建てられた。わたしが所属する産業研究所も百周年記念事業の一つとして設立されたのだが、研究所が最初に居を定めたのもこの南校舎であった。聞くところによると、今回取り壊された南校舎は、わが国で最初の「コンクリート打抜き」建築だっという。今ではずいぶん見慣れたものだが、当時は斬新だった。一階が吹き抜けになっていて、芝浦の海が見えたという。当時は、遮る建物もなかったのだろう。何かの本で読んだのだが、「打抜きコンクリート」建築は、禁欲的・宗教的な空間を演出するのに効果的で、教会建築や図書館などの建築にしばしば用いられるらしい。三田では他に西校舎や大学院棟が、いわゆる「打抜きコンクリート」建築である。こうした発想の建築物がいまだキャンパス内に存在すること、このことは、近代的な科学が、学問の主流になるずっと前、学問が、まだ禁欲とともにある種の敬虔と慎ましさとを兼ね備えていた時代の残り香を慶應義塾がまだ残しているということである(と信じたい)。
他方、新校舎建設と南校舎取壊しは、その過程において深刻な問題を生みだした。慢性的な教室不足である。南校舎には50-60人程度が入る中規模の教室が36部屋あった。これが一時的ではあるが、全く使えなくなったのである。慶應義塾は足りなくなった教室を補うべく、キャンパス内にプレハブを建てたり、近隣に土地やビルを借りたり買ったりして、対応することにした。いまでは、三田のキャンパスの中には何とも安普請の建物が、外には、西別館、東別館といった慶應義塾の名前を冠した数多くのビルが林立することとなった。
もう一つ、この教室不足に拍車をかけているのが、いわゆる「ひも付き補助金」である。数年前、三田通りに面した幻の門(東門)の位置がずらされ、東館が建てられたことをご存じの方も多いと思う。東館は、G-SEC(グローバル・セキュリティ・センター)の設置を前提に、もっぱら研究目的のために建設された。しかも、半額は国家予算から支出されている。そのため、慢性的な教室不足にも関わらず、研究目的という「ひも付き」予算から援助を受けていることから、教室としての利用は「目的外利用」としていまだ認められずにいる。
三田界隈が、慶應義塾関連の建物に塗り変えられていくこの傾向は、わたしが観察するところによれば、文部科学省の大型研究予算と関係がある。いわゆる科研費や未来開拓資金といった大型プロジェクトが採択されるたび、潤沢な国家予算を背景に近隣のオフィスビルのフロアがいくつも借り上げられてきた。キャンパス内に空きスペースがなかったわけではないにも関わらずである。もちろん、予算消化の要請もあったのかもしれない。しかし、だとすればなおさら、不動産の賃貸に少なからぬ予算を割いてもなお実施可能な研究プロジェクトのあり方こそが問題とされるべきであろう。
今回、民主党政権の下、「グローバルCOE」が、いわゆる「事業仕分け」の対象となったのも、こうした研究の現場を見ているとある程度合点がいく。おそらく、これに先立つ「COE(センター・オブ・エクセレンス)」あたりから、研究規模と予算のズレに拍車がかかったように思われる。
以上、わたしの直感に基づく断片的な事実の列挙にすぎないかもしれないが、これが変化のただ中にある慶應義塾の研究・教育環境の一側面である。ここで指摘した研究・教育のゆがみのいずれにも、国の予算が深く関わっていることに注意を喚起しておきたいと思う。
少子高齢化の中、従来の研究・教育体制の維持には、大学の財務基盤の拡充はいまや喫緊の課題である。しかしながら、百五十周年記念事業の身の丈に合わない野放図ともいえる展開と、かねてからの不況やリーマンショック以来の運用資金の大幅な減少といった収支両面での問題がのしかかる中、慶應義塾は国家予算への依存をますます強めている。資金提供者である文部科学省にとっても慶應義塾は安心できる提供先なのかもしれない。ただ、財務基盤の多様性の欠如、殊に国ないし政府との極端な依存関係は、これまでの大学のあり方を本質的に変化させるものになりかねない。
ここ十数年の間に進行してきた大学自体の変化を、これまで指摘してきた三田の変化を語ることによって、ある程度象徴することが可能であると思われる。キャンパス外に林立する慶應のビルやオフィス。「ひも付き」の校舎。いずれも「箱モノ行政」を地でいくやり方ではないだろうか。これは、すでに多くの分野でその「ゆがみ」が明らかとなっている、遅れてきた開発主義ではないのか。
現政権の民主党の政策スローガンは「コンクリートから人へ」である。しかし、いまの大学は、差し詰め「コンクリートから、また再びコンクリートへ」というスローガンこそふさわしい。アイロニカルな表現かもしれないが、これがいまわたしが感じている大学の現状、あるいは慶應義塾の姿である。少なくとも、多様な人材の育成と同時に、大学のその原点である「知の充実」に一刻も早く復帰させなければならない。いま、塗り変えられているのは、三田の地図だけではない。三田そのものだということにもっと危機感を持たなければならないと思う。
新校舎・未来先導館の竣工は、2011年3月。教室数も従来よりも幾分増えることになる。真に未来を先導し得る大学になりうるか否かは、「箱モノ」ではなく、箱の中に何を注ぎ、何を育むかである。
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