2010年5月10日月曜日

著作物再販論争、その後の10年(1):ポイント・カードは還元率が低ければOKか?

 十年ほど前、『著作物流通と独占禁止法』という出版物(書籍・雑誌)や新聞などの定価販売(著作物再販制度)に関する本を書いたからかもしれません。ここにきて、いくつかのルートからこの制度に関するさまざまな問い合わせをいただきます。もちろん、これまでにもこの制度に関する問い合わせが無かったわけではありません。でも、多くは、その対象となっている商品を取り扱っている業界、つまり出版業界からのものが中心でした。
 たとえば、本などを購入したときに提供されるポイント・カードが値引きと同視しうるとすれば、それは定価(出版社が設定した値段)での取引を義務づけている契約に違反するのではないか?という疑問が寄せられることもありました。また、著作物再販制度の対象となっている商品(書籍・雑誌・新聞)に同制度の対象とはなっていない商品を付けて販売する場合には定価で販売することができるのか?といった疑問もあったと思います。
 いずれも、なかなかおもしろい論点です。これらが、現在、販売の現場ではどう扱われているかご存じですか?まず、ポイント・カードからみていきましょう。
 この前、わたしがしばしば利用している書店の一つ、丸善や青山ブックセンターに立ち寄ったら、両方の書店でポイント・カードの配布を始めたみたいです。先日、数冊ほど本を購入したら、ポイント・カードを手渡されました。
 本は著作物再販制度のためにどこに行っても同じ値段ですから、こうした「おまけ」や「サービス」が書店を選ぶきっかけになるかもしれません。また、書店の側からも、値段では競争できませんので、顧客に繰り返し利用してもらう意味でも、ポイント・カードは有力な競争手段となります。
 ただ、書店などで提供されるポイント・カードは、他業種に比べ、とても低い還元率です。たしか、一から二パーセント程度。たとえば、一〇〇〇円の新書や文庫を買ったとしても、一〇円から二〇円程度のポイントが蓄積されるにすぎません。
 ここで考えなければならないのは、ポイント・カードで蓄積されるポイントとはいったい何なのかということです。買ったときに、ポイントが蓄積されるという側面に着目すれば、それは「景品類」ということになるでしょう。また、取引の際に、割引が行われるということに着目すれば、それは「値引き」ということになります。通常の商品であれば、それが「景品類」に該当すれば「不当景品類及び不当表示防止法」の規律に服し、その範囲内で景品類の提供は認められます。「値引き」ということであれば(不当廉売に該当しない限り)原則自由です。
 他方、著作物再販制度の対象商品においては、事情が異なります。「景品類」に関する規律は通常の商品と同様ですが、「値引き」ということになれば、先にも指摘したように出版社との間で書店が結ぶ「再販契約」違反ということになります。
 みなさんは、どうお考えになりますか?日頃、使っているポイント・カードは、「景品類」なのでしょうか「値引き」なのでしょうか?(つづく)

2010年4月7日水曜日

ツイッター:わたし流の使い方

 インターネット上のホームページに代表されるウェブ、ウェブの更新を大幅に簡略化しこれを一般化普及させたブログ、ミクシなどに代表されるSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)、そして最近話題のツイッターと、インターネットの登場以来、これを先導するメディアは数年毎にめまぐるしく変転しています。もちろん、何かが完全に廃れてしまうということは短期的にはそれほどなく、いずれも過去のものと併存しつつ、それぞれメディアごとの特性を発揮しながら、差別化が図られ、かつ、展開されているところに特徴があります。
 この中でも、話題の割にそのメリットが理解されにくいのがツイッターだといえるかもしれません。わたしも、ツイッターのアカウントをとって一年以上も経つのですが、最近までそのメリットや面白さを実感できず、アカウントを寝かせたまましていました。
 最初は、自分のための備忘録としてメモ代わりに使っていたのですが(もとよりこうした使い方ではその良さに全く気づくことができません)、何の発展もなく、自分のつぶやきを見るのにも飽きてしまうことになります。
 わたしが積極的に使う契機となったのは、わたしの知らないある人からの返信でした。たまたま原稿書きのために使うデジタル機器を購入したものの、そのうまい使い方がわからず、検索に便利なハッシュ・タグ(#)をつけてつぶやいてみたところ、わたしの知らない誰かから、とってもありがたい情報の返信が。ツイッターは、発言をリアルタイムで検索できてしまうのが、新らしくもあり、ユニークなところでもあります。また、質問とも独り言ともつかないつぶやきにお節介にも答えてくれた誰かの存在。140字で答えられる気安さもあるかもしれません。
 自分も感心のある特定の話題に積極的に発言している人のつぶやきをフォローし始めると徐々に発言を追いかけていくのがおもしろくなっていきます。そして、時には自分も発言してみる。
 もう一つの楽しみは、ボット(bot)という機能。定期的にあるサーバから自動的に「つぶやき」が発信されるのがボットです。わたしは、中原中也の詩の一節が自動的に送信される@chuya_botや青空文庫に収載されている名著の一節が送信される@aozora_bot_lite、さらには季節毎の俳句の名句を送られてくる@meiku_botも読んでいます。誰をフォローしていいかわからないときなどは、こうしたbotサービスから入っていくのも一つの手だと思います。
 わたしは最近、主要なニュースをツイッターから入手します。ウォールストリートジャーナル日本版の有料会員になっていますので、そこからツイッターで送られてくる見出しから興味のあるニュースをピックアップして読んだり、わたしは「情報感度が高い人」と呼んでいるのですが、こうした人のつぶやきをフォローしておくとかなり速報性の高い情報が手に入れることができます。このやり方は堀江貴文氏が提案していたものですが、あるジャンルの情報を効率的に獲得するにはこれに勝る手はないといってもいいと思います。もはや、マスメディアやジャーナリズムよりも速報性の高いニュースはツイッターにあるということなのです。
 いかがですか、少しは興味を持っていただけましたか?わたしのアカウントは@iKobeyaです。どうぞごらんになってみてください。

2010年3月23日火曜日

コンクリートから、再びコンクリートへ:塗り変えられる三田

 近頃、自分が大学の最寄り駅から三田に向かう経路をわずかに変化させていることに気がづいた。仲通りを抜け、突き当たった三田通りを右折し、東京タワーに向かって歩く。そして、幻の門(東門)をくぐる。これが、いま、三田のオフィスに向かうわたしのルートである。
 しかし、これまではそうではなかった。
 改札を出、第一京浜を跨ぐ陸橋を渡り、階段を下りると左に直進、聖坂の三叉路まで来たところで右前方に進んでいくと国道一号線にぶつかる。それをわたれば正門である。二十年近く、ずっとこのルートで通ってきた。なんということはない。わたしのオフィスに行くにはこちらの方が便利だからだ。
 無意識のうちにも、わたしのこの二十年にわたるささやかな習慣に変更をもたらしたのは、正門の先に横たわる南校舎の取壊しと新校舎(未来先導館〔仮称〕)の建設であった。いま、三田の正門を入ると、目の前に大きな工事中の壁につき当たる。だから、右の方へ、新図書館の裏手あるいは福澤庭園の脇を大きく迂回しなければ中庭・大銀杏の前には出てこれない。距離的にはどうかわからないが、心理的にはずいぶん遠回りさせられた気分になる。東門を選択してしまうのは、心理的な距離感を無意識に織り込んでいるからなのかもしれない。
 現在、進められている新校舎の建設は、ご存じのように慶應義塾創立百五十周年記念事業の一環である。ちなみに、取り壊された南校舎は創立百周年を記念して建てられた。わたしが所属する産業研究所も百周年記念事業の一つとして設立されたのだが、研究所が最初に居を定めたのもこの南校舎であった。聞くところによると、今回取り壊された南校舎は、わが国で最初の「コンクリート打抜き」建築だっという。今ではずいぶん見慣れたものだが、当時は斬新だった。一階が吹き抜けになっていて、芝浦の海が見えたという。当時は、遮る建物もなかったのだろう。何かの本で読んだのだが、「打抜きコンクリート」建築は、禁欲的・宗教的な空間を演出するのに効果的で、教会建築や図書館などの建築にしばしば用いられるらしい。三田では他に西校舎や大学院棟が、いわゆる「打抜きコンクリート」建築である。こうした発想の建築物がいまだキャンパス内に存在すること、このことは、近代的な科学が、学問の主流になるずっと前、学問が、まだ禁欲とともにある種の敬虔と慎ましさとを兼ね備えていた時代の残り香を慶應義塾がまだ残しているということである(と信じたい)。
 他方、新校舎建設と南校舎取壊しは、その過程において深刻な問題を生みだした。慢性的な教室不足である。南校舎には50-60人程度が入る中規模の教室が36部屋あった。これが一時的ではあるが、全く使えなくなったのである。慶應義塾は足りなくなった教室を補うべく、キャンパス内にプレハブを建てたり、近隣に土地やビルを借りたり買ったりして、対応することにした。いまでは、三田のキャンパスの中には何とも安普請の建物が、外には、西別館、東別館といった慶應義塾の名前を冠した数多くのビルが林立することとなった。
 もう一つ、この教室不足に拍車をかけているのが、いわゆる「ひも付き補助金」である。数年前、三田通りに面した幻の門(東門)の位置がずらされ、東館が建てられたことをご存じの方も多いと思う。東館は、G-SEC(グローバル・セキュリティ・センター)の設置を前提に、もっぱら研究目的のために建設された。しかも、半額は国家予算から支出されている。そのため、慢性的な教室不足にも関わらず、研究目的という「ひも付き」予算から援助を受けていることから、教室としての利用は「目的外利用」としていまだ認められずにいる。
 三田界隈が、慶應義塾関連の建物に塗り変えられていくこの傾向は、わたしが観察するところによれば、文部科学省の大型研究予算と関係がある。いわゆる科研費や未来開拓資金といった大型プロジェクトが採択されるたび、潤沢な国家予算を背景に近隣のオフィスビルのフロアがいくつも借り上げられてきた。キャンパス内に空きスペースがなかったわけではないにも関わらずである。もちろん、予算消化の要請もあったのかもしれない。しかし、だとすればなおさら、不動産の賃貸に少なからぬ予算を割いてもなお実施可能な研究プロジェクトのあり方こそが問題とされるべきであろう。
 今回、民主党政権の下、「グローバルCOE」が、いわゆる「事業仕分け」の対象となったのも、こうした研究の現場を見ているとある程度合点がいく。おそらく、これに先立つ「COE(センター・オブ・エクセレンス)」あたりから、研究規模と予算のズレに拍車がかかったように思われる。
 以上、わたしの直感に基づく断片的な事実の列挙にすぎないかもしれないが、これが変化のただ中にある慶應義塾の研究・教育環境の一側面である。ここで指摘した研究・教育のゆがみのいずれにも、国の予算が深く関わっていることに注意を喚起しておきたいと思う。
 少子高齢化の中、従来の研究・教育体制の維持には、大学の財務基盤の拡充はいまや喫緊の課題である。しかしながら、百五十周年記念事業の身の丈に合わない野放図ともいえる展開と、かねてからの不況やリーマンショック以来の運用資金の大幅な減少といった収支両面での問題がのしかかる中、慶應義塾は国家予算への依存をますます強めている。資金提供者である文部科学省にとっても慶應義塾は安心できる提供先なのかもしれない。ただ、財務基盤の多様性の欠如、殊に国ないし政府との極端な依存関係は、これまでの大学のあり方を本質的に変化させるものになりかねない。
 ここ十数年の間に進行してきた大学自体の変化を、これまで指摘してきた三田の変化を語ることによって、ある程度象徴することが可能であると思われる。キャンパス外に林立する慶應のビルやオフィス。「ひも付き」の校舎。いずれも「箱モノ行政」を地でいくやり方ではないだろうか。これは、すでに多くの分野でその「ゆがみ」が明らかとなっている、遅れてきた開発主義ではないのか。
 現政権の民主党の政策スローガンは「コンクリートから人へ」である。しかし、いまの大学は、差し詰め「コンクリートから、また再びコンクリートへ」というスローガンこそふさわしい。アイロニカルな表現かもしれないが、これがいまわたしが感じている大学の現状、あるいは慶應義塾の姿である。少なくとも、多様な人材の育成と同時に、大学のその原点である「知の充実」に一刻も早く復帰させなければならない。いま、塗り変えられているのは、三田の地図だけではない。三田そのものだということにもっと危機感を持たなければならないと思う。
 新校舎・未来先導館の竣工は、2011年3月。教室数も従来よりも幾分増えることになる。真に未来を先導し得る大学になりうるか否かは、「箱モノ」ではなく、箱の中に何を注ぎ、何を育むかである。

2010年3月21日日曜日

鎌倉山散策

久し振りに鎌倉山を散策。いつもなら江ノ島を望む先には富士山が見える
のだが、今日に限っては、今年初の黄砂に阻まれて富士は砂色に霞むばか
り。

2010年3月19日金曜日

久しぶりの投稿

久しぶりの投稿。二年弱ぶり。過去の文章をさかのぼるとなかなか興味深い。ツィッターばかりにはまっていないで、こちらも充実させていこう、かな?