2011年9月6日火曜日

「○○目線」の強制力

 近頃、耳にするたびに、しっくりこないというか、半ば反発さえ感じてしまう言葉がある。「○○目線」というフレーズ。最近では「○○目線で考える」というふうに比喩的に使われることも多いようだ。
 わたしは、このしばしば政治家やマスメディアによって繰り返される「国民の目線」とか「消費者目線」というフレーズに、言いようのない強制力を感じ、いささかナイーブかもしれないのだが、嫌悪さえ感じてしまうのである。
 そもそも「目線」とは、「視線」の意の俗語であり、目を向けている方向をさしている。最近刊行された中村明『日本語・語感の辞典』(岩波書店・2010年)によれば、くだけた会話に最近よく使われるのだという。
 「目線」をやめて、「国民の視線」とか「消費者視線」というと、主に国民や消費者の興味や関心の対象、つまり「視線の先」に注意が向けられているように感じる。だが、「○○目線」というと、興味や関心の対象を見る目の位置又はそれをいう人の対象や問題への姿勢や態度といった「視線の源」に重みを置いた表現のように見える。しかも、その姿勢や態度が正当で、それを採ることを他者に求める、あるいは、それを強制し従わせるかのようなニュアンスを感じる。しばしば「目線」の前には「国民」とか「消費者」など一見正当な主張であることを裏付ける言葉が来るし、「上から目線」という言い方も影響しているのかもしれない。
 わが国には、ほかに「視線の源」を意味する言葉が豊かにある。たとえば、対象を見る目の位置や対象に対する位置取りを意味する「視点」、考察を加える際の立脚点をさす「観点」、物事の観察や判断、議論をする際にその人間が拠りどころとする立場をさす「見地」、ものを見たり考えたり論じたりする際の基本となる立場をさす「視座」、もっとも一般的な和語として「立場」があるだろうか。
 「視線」とは違い、「視線の源」を意味する「目線」は「視点」と置き換えることが可能である。だとすれば、「目線」を使わなくたっていいではないか。それでもなお、「目線」を用いる背景は、根拠無き主張を相手に押し付ける話者の傲慢ではないかとさえ思う。
 アプローチは異なるものの、わたしと同様、近頃の「目線」に違和感を持っていたのが先の『語感の辞典』であった。この「目線」の項目には、辞典としては不自然なくらい情緒的な蔑みの言葉で記されている。すなわち、「......芸能界やマスコミなどの業界の仲間内のことばが、わかりやすいこともあり電波をとおして一般に広ま」った。「......改まった会話や硬い文章で使うと今でも品格を落としかねない」と。

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