2012年3月19日月曜日

【後白河法皇編・川村湊訳『梁塵秘抄』(光文社、2011年)】

数年前、亀山郁男によるドストエフスキー作品の一連の翻訳でちょっとしたブームを起こし、一躍話題となった光文社古典新訳文庫。ブームが下火(?)になった現在も、確固とした書業は続けられているようで安心した。
 で、ここ数日読んでいるのは『梁塵秘抄』。先日読んだ高橋睦郎の『詩心二千年---スサノオから3・11』(岩波書店、2011年)で、その文学史上における異端ぶり・特異ぶりが述べられており、それに導かれつつ、学生時代に学んだ文化史・文学史の大きなブランクを踏み越えて読み始めた。しかも、手にしたのは光文社古典新訳文庫版。定番の岩波文庫版でも筑摩文庫版でもないところがミソだ。
 『梁塵秘抄』といえば、「今様」---遊女(あそびめ)や傀儡子などがもっぱらとした流行りの歌謡曲---を集めたもの。「現代風」という意味だから、今なら、さしずめJ-popとか演歌といった感じだろう(この両者にも大きな隔たりがあるが)。だとすれば、やっぱり訳業は、これを念頭においたものであってほしい。
 後白河法皇編・川村湊訳『梁塵秘抄』(光文社、2011年)は、『梁塵秘抄』の中から百首が選ばれ、一首ずつ、原則見開き二ページで、右に【訳】、左に【原歌】と「コメント」というか「訳者の思い(!?)」が語られる。たとえば、こんな感じだ。「暁静かに寝覚めして 思えば涙ぞ抑え敢えぬ はかなく此の世を過ぐしては いつかは浄土へ参るべき」。と、こんな原歌が訳者にかかると「ひとりねの朝に めざめて 見た夢の/あなたの面影を追いかけて/ひとり 涙流すのよ/はかなく つらい ひとの世を/どうして 生きれば/ほんとの幸せ くるのやら」となる。読んでいるうち、確かにベタだが、何かテレサ・テンや桂銀淑の歌を聞いているようではないか。石川さゆりや八代亜紀も出てきそう(笑)。訳者は、自ら告白しているように、女性演歌が好きらしい。好みが如実に現れている。
 竹内まりやの歌や荒井由実の詩のささやかなファンでもあるわたしなどは、この『梁塵秘抄』が彼女たちの手にかかるとどんな風になるかを思い描きながら、いつの間にか読んでいた。中島みゆきや大黒摩季にも歌わせてみたい......。秋元康が書いたなら......。「今様」こそ、こうした「悪ノリ」を楽しみ、それが、多分、源平相争う激動の時代に、詩歌における正統と異端の価値顛倒をよろこんだ後白河法王の意図にかなうのではないか......、と思ってみたりする。

2012年3月6日火曜日

【高橋睦郎著『詩心二千年---スサノオから3・11』(岩波書店、2011年)】

久しぶりに読みごたえのある書物を読んだ気がする。400ページにわずかに届かぬ程度で、取り立ててページ数が多いわけでもない。ただ、場所によっては、日頃の読書の領域から外れることもあり、そんな読み馴れない箇所に出会うと、都度、行きつ戻りつする。そして、読み手は、これを繰り返しながら、味読する。
 何らかのテーマに沿った一冊の著書でありながら、部分によって読みの緩急が伴うのは、その扱う内容が広範であり、これに取り組む著者の意欲と該博に出会う場合に限られる。
 本書が誘うのは、日本語の詩歌をめぐる通史的な詩論。これまで時代を区切ったものや、近・現代のみを扱う批評は少なくなかった。が、神代から現代までを通貫するものはいまだかつてなく、その気宇に驚く。歌謡、和歌、連歌、俳諧、漢詩、源氏物語に平家物語、猿楽、能、浄瑠璃、短歌、俳句、近現代詩を素材に、実作者の経験と直感、そして、湧き出るユニークな発想とイメージで語り描く。
 曰く、わが国の詩歌の歴史は、「からうた」と「やまとうた」の恋着と反撥の歴史だ。これは、母胎たるユーラシア大陸から切り離された列島弧として存在するわが国土に由来するのだ、と。
 本書は、3年にわたり大阪芸術大学文芸学科での講義がもとになっている。その後、岩波書店の読書誌『図書』に連載された。何事も、分かりやすい方がいいという時代である。しかし、大学の講義は、少し背伸びしてついていくくらいの方がいい。ちょうどこの本は、ときにわたしに少しの背伸びを要求するものだった。

2012年3月5日月曜日

競争・市場という言葉のイメージがよくない

近頃、「競争」や「市場」という言葉のイメージがよろしくない。「競争は格差を生み出す」などといって、競争は、昨今怨嗟の的となっている格差社会の元凶と見られている。そればかりではない。90年代に盛んに提唱された「規制緩和」による競争促進政策もいまや全否定されそうな勢いである。また、「市場」のメリットを少しでも強調しようものなら、あっという間に「市場原理主義者」のレッテルを貼られてしまう。「市場原理主義者」といえば、ひととき隆盛を究めた新自由主義(ネオ・リベ)としばしば同一視されたあの一群の人々(必ずしも正確には一致するものではないが)。多くの人は、彼らのことを、経済学上の空虚な理論を振りかざし、これを崇拝する教条主義者とみている。
 こうした「競争」や「市場」のイメージの低下、すなわち、これらへの信頼の低下は、資本主義を曲がりなりにも標榜するわが国において看過しがたい問題といわなければならない。とりわけ、筆者のように独占禁止法を中心とする経済法を専門とする人間からすれば、その存立基盤を揺るがしかねない。それは、独占禁止法がその名をもって示しているように「独占」を「禁止」する法律なのではなく、「公正かつ自由な競争を促進する」という、いわば「市場」の「競争」を促進することを目的とする法律だからである。独占禁止法も、ひいては資本主義というものも、一般国民の「市場」や「競争」というものに対する信頼を基盤として成り立っているのである。
 ここ数年、よく読まれた新書に大竹文雄『競争と公平感---市場経済の本当のメリット』(中公新書、2010年)がある。労働経済を専門にする経済学者の手によるものだが、この本の冒頭において興味深い調査結果が示されている。これは、米国における調査機関ピュー研究所によって行われた国際的な意識調査である(Pew Research Center, 2007)。
 ここで、日本は資本主義諸国の中で、例外的に「市場」や「競争」への拒否反応が強い国であるとの結果が出ているのだ。確かに、この結果に共感を寄せる人も多いのかもしれない。しかし、この結果を素直に受け入れてよいものだろうか?わたしたちは、市場の競争を通じて現在の経済発展を手に入れてきたはずである。果たして、市場や競争はデメリットばかりなのだろうか?(つづく)