先月指摘した興味深い、米国における調査機関ピュー研究所による国際的な意識調査(Pew Research Center, 2007)の内容をちょっとのぞいてみよう。「貧富の格差が生じるとしても、自由な市場経済で多くの人々はより良くなる」。市場経済のデメリットを前提としたとしても、そのメリットは余りあると考えている人はどのくらいいるかという問いである。資本主義とか市場というものへの信頼に対する最も基本的な問いであろう。もちろん、モノゴトの是非をきいている訳ではない。認識の問題である。この問いに対する答え、日本は主要国の中で最も低い結果となっている。日本は49パーセントであり、他の主要国を見てみると、米国70パーセント、カナダ・スウェーデン71パーセント、イギリス・韓国72パーセント、イタリア73パーセント、中国75パーセント、スペイン65パーセント、ドイツ56パーセント、フランス56パーセント、ロシア53パーセントとなっている。
アングロサクソン諸国は軒並み高い。大陸ヨーロッパ諸国とロシアは比較的市場に対する信頼が低いといえそうだ。わが国は、その大陸ヨーロッパ諸国や旧社会主義国である中国やロシアよりも市場を信頼していない。
市場経済は優勝劣敗のメカニズムである。したがって、市場競争の中で幸運を手にすることができず脱落する人が生じるのもやむを得ない。しかし、これらの人を放置しておいてよいはずもなく、これに対してはセーフティ・ネット(安全網)を通常政府が用意するとの理解が、講学上は一般的だ。セーフティ・ネットは、サーカスなどの綱渡りや空中ブランコにおいて演技者の安全を守る網(ネット)が語源である。しかし、「猿も木から落ちる」や「弘法も筆の誤り」という諺がある日本では、失敗した時、最悪の事態にならないためのものとして考えがちである。もちろん、それはそれで誤りではない。しかし、セーフティ・ネットにはもっと積極的な意味がある。この網があるために、演技者はよりリスクの高い難しい技に挑戦しようとする。ほとんど失敗をすることがないプロに対して、それなりのコストをかけて安全を図るのは、こうした理由があるのだ。
二つ目の問い、「自立できない非常に貧しい人たちの面倒を見るのは国の責任である」に対し、日本は59パーセントを示し、半分強程度の同意しか得られていない。これは、先ほどのアングロサクソン諸国や大陸ヨーロッパさらには旧社会主義諸国よりも顕著に低い結果となっている。例えば、カナダ81パーセント、フランス83パーセント、イタリア・スウェーデン・ロシア86パーセント、韓国87パーセント、中国90パーセント、イギリス91パーセント、ドイツ92パーセント、スペイン96パーセント、米国でも70パーセントとなっている。
この二つの問いへの回答は、一体何を意味しているのだろうか(つづく)
2012年4月9日月曜日
2012年3月19日月曜日
【後白河法皇編・川村湊訳『梁塵秘抄』(光文社、2011年)】
数年前、亀山郁男によるドストエフスキー作品の一連の翻訳でちょっとしたブームを起こし、一躍話題となった光文社古典新訳文庫。ブームが下火(?)になった現在も、確固とした書業は続けられているようで安心した。
で、ここ数日読んでいるのは『梁塵秘抄』。先日読んだ高橋睦郎の『詩心二千年---スサノオから3・11』(岩波書店、2011年)で、その文学史上における異端ぶり・特異ぶりが述べられており、それに導かれつつ、学生時代に学んだ文化史・文学史の大きなブランクを踏み越えて読み始めた。しかも、手にしたのは光文社古典新訳文庫版。定番の岩波文庫版でも筑摩文庫版でもないところがミソだ。
『梁塵秘抄』といえば、「今様」---遊女(あそびめ)や傀儡子などがもっぱらとした流行りの歌謡曲---を集めたもの。「現代風」という意味だから、今なら、さしずめJ-popとか演歌といった感じだろう(この両者にも大きな隔たりがあるが)。だとすれば、やっぱり訳業は、これを念頭においたものであってほしい。
後白河法皇編・川村湊訳『梁塵秘抄』(光文社、2011年)は、『梁塵秘抄』の中から百首が選ばれ、一首ずつ、原則見開き二ページで、右に【訳】、左に【原歌】と「コメント」というか「訳者の思い(!?)」が語られる。たとえば、こんな感じだ。「暁静かに寝覚めして 思えば涙ぞ抑え敢えぬ はかなく此の世を過ぐしては いつかは浄土へ参るべき」。と、こんな原歌が訳者にかかると「ひとりねの朝に めざめて 見た夢の/あなたの面影を追いかけて/ひとり 涙流すのよ/はかなく つらい ひとの世を/どうして 生きれば/ほんとの幸せ くるのやら」となる。読んでいるうち、確かにベタだが、何かテレサ・テンや桂銀淑の歌を聞いているようではないか。石川さゆりや八代亜紀も出てきそう(笑)。訳者は、自ら告白しているように、女性演歌が好きらしい。好みが如実に現れている。
竹内まりやの歌や荒井由実の詩のささやかなファンでもあるわたしなどは、この『梁塵秘抄』が彼女たちの手にかかるとどんな風になるかを思い描きながら、いつの間にか読んでいた。中島みゆきや大黒摩季にも歌わせてみたい......。秋元康が書いたなら......。「今様」こそ、こうした「悪ノリ」を楽しみ、それが、多分、源平相争う激動の時代に、詩歌における正統と異端の価値顛倒をよろこんだ後白河法王の意図にかなうのではないか......、と思ってみたりする。
で、ここ数日読んでいるのは『梁塵秘抄』。先日読んだ高橋睦郎の『詩心二千年---スサノオから3・11』(岩波書店、2011年)で、その文学史上における異端ぶり・特異ぶりが述べられており、それに導かれつつ、学生時代に学んだ文化史・文学史の大きなブランクを踏み越えて読み始めた。しかも、手にしたのは光文社古典新訳文庫版。定番の岩波文庫版でも筑摩文庫版でもないところがミソだ。
『梁塵秘抄』といえば、「今様」---遊女(あそびめ)や傀儡子などがもっぱらとした流行りの歌謡曲---を集めたもの。「現代風」という意味だから、今なら、さしずめJ-popとか演歌といった感じだろう(この両者にも大きな隔たりがあるが)。だとすれば、やっぱり訳業は、これを念頭においたものであってほしい。
後白河法皇編・川村湊訳『梁塵秘抄』(光文社、2011年)は、『梁塵秘抄』の中から百首が選ばれ、一首ずつ、原則見開き二ページで、右に【訳】、左に【原歌】と「コメント」というか「訳者の思い(!?)」が語られる。たとえば、こんな感じだ。「暁静かに寝覚めして 思えば涙ぞ抑え敢えぬ はかなく此の世を過ぐしては いつかは浄土へ参るべき」。と、こんな原歌が訳者にかかると「ひとりねの朝に めざめて 見た夢の/あなたの面影を追いかけて/ひとり 涙流すのよ/はかなく つらい ひとの世を/どうして 生きれば/ほんとの幸せ くるのやら」となる。読んでいるうち、確かにベタだが、何かテレサ・テンや桂銀淑の歌を聞いているようではないか。石川さゆりや八代亜紀も出てきそう(笑)。訳者は、自ら告白しているように、女性演歌が好きらしい。好みが如実に現れている。
竹内まりやの歌や荒井由実の詩のささやかなファンでもあるわたしなどは、この『梁塵秘抄』が彼女たちの手にかかるとどんな風になるかを思い描きながら、いつの間にか読んでいた。中島みゆきや大黒摩季にも歌わせてみたい......。秋元康が書いたなら......。「今様」こそ、こうした「悪ノリ」を楽しみ、それが、多分、源平相争う激動の時代に、詩歌における正統と異端の価値顛倒をよろこんだ後白河法王の意図にかなうのではないか......、と思ってみたりする。
2012年3月6日火曜日
【高橋睦郎著『詩心二千年---スサノオから3・11』(岩波書店、2011年)】
久しぶりに読みごたえのある書物を読んだ気がする。400ページにわずかに届かぬ程度で、取り立ててページ数が多いわけでもない。ただ、場所によっては、日頃の読書の領域から外れることもあり、そんな読み馴れない箇所に出会うと、都度、行きつ戻りつする。そして、読み手は、これを繰り返しながら、味読する。
何らかのテーマに沿った一冊の著書でありながら、部分によって読みの緩急が伴うのは、その扱う内容が広範であり、これに取り組む著者の意欲と該博に出会う場合に限られる。
本書が誘うのは、日本語の詩歌をめぐる通史的な詩論。これまで時代を区切ったものや、近・現代のみを扱う批評は少なくなかった。が、神代から現代までを通貫するものはいまだかつてなく、その気宇に驚く。歌謡、和歌、連歌、俳諧、漢詩、源氏物語に平家物語、猿楽、能、浄瑠璃、短歌、俳句、近現代詩を素材に、実作者の経験と直感、そして、湧き出るユニークな発想とイメージで語り描く。
曰く、わが国の詩歌の歴史は、「からうた」と「やまとうた」の恋着と反撥の歴史だ。これは、母胎たるユーラシア大陸から切り離された列島弧として存在するわが国土に由来するのだ、と。
本書は、3年にわたり大阪芸術大学文芸学科での講義がもとになっている。その後、岩波書店の読書誌『図書』に連載された。何事も、分かりやすい方がいいという時代である。しかし、大学の講義は、少し背伸びしてついていくくらいの方がいい。ちょうどこの本は、ときにわたしに少しの背伸びを要求するものだった。
何らかのテーマに沿った一冊の著書でありながら、部分によって読みの緩急が伴うのは、その扱う内容が広範であり、これに取り組む著者の意欲と該博に出会う場合に限られる。
本書が誘うのは、日本語の詩歌をめぐる通史的な詩論。これまで時代を区切ったものや、近・現代のみを扱う批評は少なくなかった。が、神代から現代までを通貫するものはいまだかつてなく、その気宇に驚く。歌謡、和歌、連歌、俳諧、漢詩、源氏物語に平家物語、猿楽、能、浄瑠璃、短歌、俳句、近現代詩を素材に、実作者の経験と直感、そして、湧き出るユニークな発想とイメージで語り描く。
曰く、わが国の詩歌の歴史は、「からうた」と「やまとうた」の恋着と反撥の歴史だ。これは、母胎たるユーラシア大陸から切り離された列島弧として存在するわが国土に由来するのだ、と。
本書は、3年にわたり大阪芸術大学文芸学科での講義がもとになっている。その後、岩波書店の読書誌『図書』に連載された。何事も、分かりやすい方がいいという時代である。しかし、大学の講義は、少し背伸びしてついていくくらいの方がいい。ちょうどこの本は、ときにわたしに少しの背伸びを要求するものだった。
2012年3月5日月曜日
競争・市場という言葉のイメージがよくない
近頃、「競争」や「市場」という言葉のイメージがよろしくない。「競争は格差を生み出す」などといって、競争は、昨今怨嗟の的となっている格差社会の元凶と見られている。そればかりではない。90年代に盛んに提唱された「規制緩和」による競争促進政策もいまや全否定されそうな勢いである。また、「市場」のメリットを少しでも強調しようものなら、あっという間に「市場原理主義者」のレッテルを貼られてしまう。「市場原理主義者」といえば、ひととき隆盛を究めた新自由主義(ネオ・リベ)としばしば同一視されたあの一群の人々(必ずしも正確には一致するものではないが)。多くの人は、彼らのことを、経済学上の空虚な理論を振りかざし、これを崇拝する教条主義者とみている。
こうした「競争」や「市場」のイメージの低下、すなわち、これらへの信頼の低下は、資本主義を曲がりなりにも標榜するわが国において看過しがたい問題といわなければならない。とりわけ、筆者のように独占禁止法を中心とする経済法を専門とする人間からすれば、その存立基盤を揺るがしかねない。それは、独占禁止法がその名をもって示しているように「独占」を「禁止」する法律なのではなく、「公正かつ自由な競争を促進する」という、いわば「市場」の「競争」を促進することを目的とする法律だからである。独占禁止法も、ひいては資本主義というものも、一般国民の「市場」や「競争」というものに対する信頼を基盤として成り立っているのである。
ここ数年、よく読まれた新書に大竹文雄『競争と公平感---市場経済の本当のメリット』(中公新書、2010年)がある。労働経済を専門にする経済学者の手によるものだが、この本の冒頭において興味深い調査結果が示されている。これは、米国における調査機関ピュー研究所によって行われた国際的な意識調査である(Pew Research Center, 2007)。
ここで、日本は資本主義諸国の中で、例外的に「市場」や「競争」への拒否反応が強い国であるとの結果が出ているのだ。確かに、この結果に共感を寄せる人も多いのかもしれない。しかし、この結果を素直に受け入れてよいものだろうか?わたしたちは、市場の競争を通じて現在の経済発展を手に入れてきたはずである。果たして、市場や競争はデメリットばかりなのだろうか?(つづく)
こうした「競争」や「市場」のイメージの低下、すなわち、これらへの信頼の低下は、資本主義を曲がりなりにも標榜するわが国において看過しがたい問題といわなければならない。とりわけ、筆者のように独占禁止法を中心とする経済法を専門とする人間からすれば、その存立基盤を揺るがしかねない。それは、独占禁止法がその名をもって示しているように「独占」を「禁止」する法律なのではなく、「公正かつ自由な競争を促進する」という、いわば「市場」の「競争」を促進することを目的とする法律だからである。独占禁止法も、ひいては資本主義というものも、一般国民の「市場」や「競争」というものに対する信頼を基盤として成り立っているのである。
ここ数年、よく読まれた新書に大竹文雄『競争と公平感---市場経済の本当のメリット』(中公新書、2010年)がある。労働経済を専門にする経済学者の手によるものだが、この本の冒頭において興味深い調査結果が示されている。これは、米国における調査機関ピュー研究所によって行われた国際的な意識調査である(Pew Research Center, 2007)。
ここで、日本は資本主義諸国の中で、例外的に「市場」や「競争」への拒否反応が強い国であるとの結果が出ているのだ。確かに、この結果に共感を寄せる人も多いのかもしれない。しかし、この結果を素直に受け入れてよいものだろうか?わたしたちは、市場の競争を通じて現在の経済発展を手に入れてきたはずである。果たして、市場や競争はデメリットばかりなのだろうか?(つづく)
2012年2月5日日曜日
無惨な景観、あるいは目障りな電線の混雑(2)
FTTHサービスの多様性を維持したまま、「無惨な景観」を解消するには、どうしたらよいのか。もっとも効果的な方策こそが、先月指摘した光ファイバー回線を複数の事業者で共用すること、つまり、局舎から加入者宅までの回線の開放である。しかし、こんな素朴で単純なことがいま現在できていないのである。
伝え聞くところによれば、加入者宅の最も近くにある光ファイバー回線は、NTT東西ですら、すべての回線を利用できている訳ではない(現在、9割以上の地域で光ファイバー敷設されているのだが、実際利用されているのはわずか3割程度である)。
NTT東西はいう。他の事業者と設備を共用すると、投資を回収できなくなり、今後、光ファイバーを敷設するインセンティブが失われてしまう、と。本当だろうか?すでに加入社宅までの光ファイバーは9割がた敷設を終えており、残りの1割はどうしても光ファイバーを敷設しなければいけないわけではあるまい(他に代わりうるブロードバンド・サービスだってあるわけだ)。むしろ、他の事業者と共同してその回線を使えば、他社から接続料を徴収することができ、NTT東西のこれまでの投資を回収することが可能になるのではないか。かえって、従来の設備を効率的に利用することができるはずなのである。
すでにわが国は、顧客を囲い込み、先行者利益を求めて、設備の敷設を血眼になって行う段階はとっくに終わっている。むしろ、これからは、これらの投資を回収する段階であるといってよい。共用・接続を認め、接続料徴収こそ、設備の効率的利用に寄与することは明らかで、それを認めないのは、障壁を人為的に作り出し、参入の排除を意図したものと言えないだろうか。かつて接続に係る諸々の制度を整えたときの趣旨や議論はどこへ行ってしまったのだろうか。
近時、景観条例等によって移動体通信サービスの鉄塔やアンテナが新たに建てにくい状況にあるという。しかし、景観面でより多くを考えなければならないのは、むしろ電柱と電線の混雑の方ではないだろうか。
この議論は、移動体通信サービスにおいても、話は単純で、鉄塔やアンテナを各社ごとではなく、共用すれば、いまのような混雑や景観侵害を最小化できるはずである。なぜ、こんなきわめて単純なことがいつまでたっても常識とならず、何年にもわたり議論が続けられてきているのか。不自然でならない。われわれ消費者は、もっと身の回りにある景観の変化に敏感になった方がよいと思う。(おわり)
伝え聞くところによれば、加入者宅の最も近くにある光ファイバー回線は、NTT東西ですら、すべての回線を利用できている訳ではない(現在、9割以上の地域で光ファイバー敷設されているのだが、実際利用されているのはわずか3割程度である)。
NTT東西はいう。他の事業者と設備を共用すると、投資を回収できなくなり、今後、光ファイバーを敷設するインセンティブが失われてしまう、と。本当だろうか?すでに加入社宅までの光ファイバーは9割がた敷設を終えており、残りの1割はどうしても光ファイバーを敷設しなければいけないわけではあるまい(他に代わりうるブロードバンド・サービスだってあるわけだ)。むしろ、他の事業者と共同してその回線を使えば、他社から接続料を徴収することができ、NTT東西のこれまでの投資を回収することが可能になるのではないか。かえって、従来の設備を効率的に利用することができるはずなのである。
すでにわが国は、顧客を囲い込み、先行者利益を求めて、設備の敷設を血眼になって行う段階はとっくに終わっている。むしろ、これからは、これらの投資を回収する段階であるといってよい。共用・接続を認め、接続料徴収こそ、設備の効率的利用に寄与することは明らかで、それを認めないのは、障壁を人為的に作り出し、参入の排除を意図したものと言えないだろうか。かつて接続に係る諸々の制度を整えたときの趣旨や議論はどこへ行ってしまったのだろうか。
近時、景観条例等によって移動体通信サービスの鉄塔やアンテナが新たに建てにくい状況にあるという。しかし、景観面でより多くを考えなければならないのは、むしろ電柱と電線の混雑の方ではないだろうか。
この議論は、移動体通信サービスにおいても、話は単純で、鉄塔やアンテナを各社ごとではなく、共用すれば、いまのような混雑や景観侵害を最小化できるはずである。なぜ、こんなきわめて単純なことがいつまでたっても常識とならず、何年にもわたり議論が続けられてきているのか。不自然でならない。われわれ消費者は、もっと身の回りにある景観の変化に敏感になった方がよいと思う。(おわり)
2012年1月29日日曜日
【今野敏『疑心-隠蔽捜査3』(新潮文庫・2012年)】
日頃全くといってよいほど小説を読まないわたしだが、この人の作品についてだけは、「はまりすぎてはいけない」と自制心を働かせ、ガマンのためいくつかのハードルをあえて設けている。
それは、(1)シリーズを限定する、(2)購入は文庫版だけ、(3)なるべく新刊情報を追いかけない、の三つ。
だが、昨日、オフィスからの帰りがけ、駅ナカの本屋でこの人の新刊が平積みされているのを見てしまった。今月の新潮文庫の新刊だった。出会ってしまった以上、迷わず購入。買ったら最後、徹夜をしてでも読み終わるまで止まらない。結局、昨晩は、午前2時過ぎまで夜更かしをしてしまった。
今野敏著『疑心-隠蔽捜査3』(2009年)。『隠蔽捜査』(2006年)・『果断-隠蔽捜査2』(2008年)に続くシリーズの第三弾。文庫版はおよそ2-3年くらいのインターバルをおいて刊行される。
きっかけは、母校の高等学校の50周年イベント。作者の今野敏氏は高等学校の先輩。正確なタイトルは忘れたが、数年前に「出版文化の未来」というようなテーマでささやかなシンポジウムが催されたことがある。わたしは、このシンポジウムの司会を依頼された。同氏はそのときのパネラーのおひとり。
同氏の作品はテレビドラマ「班長」シリーズの原作にもなっており、たいへんな「売れっ子」だと聞いていた。しかし、テレビドラマはほとんど見ない上、小説の類も「鬼平」シリーズ以外熱心に読んだこともなく、正直関心の射程外で、お名前も恥ずかしながら存じ上げなかった。それでも、先輩でもあるし、シンポジウムでご一緒する以上、作品の一つくらいは目を通しておこうと、ふらっと入った本屋で手に取ったのが、文庫版の『隠蔽捜査』。そして、はまった。
警察小説をそれほどたくさん読んでいるわけではないが、どの作品もストーリーの展開がユニークである。事件が起こり、それを振り返り、推理を働かせ、解決に至るという、現在と過去を行き来するこの手の作品群とは一線を画していることは確かだ。とにかく時系列に沿って、状況が展開する。主人公の置かれた状況と判断が、スピーディに臨場感をもって描かれる。読む者を放さない、今野敏の文章。巧みである。
実は、<隠蔽捜査>シリーズは、すでにハードカバー版で最新刊の『転迷-隠蔽捜査4』と『初陣-隠蔽捜査3.5』が刊行されている。もちろん、読みたいのはやまやまだが、文庫版が出るのを待つことにしている。
それは、(1)シリーズを限定する、(2)購入は文庫版だけ、(3)なるべく新刊情報を追いかけない、の三つ。
だが、昨日、オフィスからの帰りがけ、駅ナカの本屋でこの人の新刊が平積みされているのを見てしまった。今月の新潮文庫の新刊だった。出会ってしまった以上、迷わず購入。買ったら最後、徹夜をしてでも読み終わるまで止まらない。結局、昨晩は、午前2時過ぎまで夜更かしをしてしまった。
今野敏著『疑心-隠蔽捜査3』(2009年)。『隠蔽捜査』(2006年)・『果断-隠蔽捜査2』(2008年)に続くシリーズの第三弾。文庫版はおよそ2-3年くらいのインターバルをおいて刊行される。
きっかけは、母校の高等学校の50周年イベント。作者の今野敏氏は高等学校の先輩。正確なタイトルは忘れたが、数年前に「出版文化の未来」というようなテーマでささやかなシンポジウムが催されたことがある。わたしは、このシンポジウムの司会を依頼された。同氏はそのときのパネラーのおひとり。
同氏の作品はテレビドラマ「班長」シリーズの原作にもなっており、たいへんな「売れっ子」だと聞いていた。しかし、テレビドラマはほとんど見ない上、小説の類も「鬼平」シリーズ以外熱心に読んだこともなく、正直関心の射程外で、お名前も恥ずかしながら存じ上げなかった。それでも、先輩でもあるし、シンポジウムでご一緒する以上、作品の一つくらいは目を通しておこうと、ふらっと入った本屋で手に取ったのが、文庫版の『隠蔽捜査』。そして、はまった。
警察小説をそれほどたくさん読んでいるわけではないが、どの作品もストーリーの展開がユニークである。事件が起こり、それを振り返り、推理を働かせ、解決に至るという、現在と過去を行き来するこの手の作品群とは一線を画していることは確かだ。とにかく時系列に沿って、状況が展開する。主人公の置かれた状況と判断が、スピーディに臨場感をもって描かれる。読む者を放さない、今野敏の文章。巧みである。
実は、<隠蔽捜査>シリーズは、すでにハードカバー版で最新刊の『転迷-隠蔽捜査4』と『初陣-隠蔽捜査3.5』が刊行されている。もちろん、読みたいのはやまやまだが、文庫版が出るのを待つことにしている。
2012年1月27日金曜日
【荒川洋治『昭和の読書』(幻戯書房、2011年)】
先日の朝日新聞夕刊の文芸欄で取り上げられたのが本書購入のきっかけ。この本が起こしたちょっとした「物議」に興味を惹かれ読んでみたのだが、版元の幻戯書房がHPでコメントしているように、そんな過激な内容ではなかったように思う。ただ、文学をめぐるこれらの文章には、現代の文学シーンに「もの申す」姿勢があちらこちらに見られることは確かだ。特にページ数にして本書の6割を占める書き下ろし、「昭和の読書」、「昭和の本」、「名作集の往還」、「詞華集の風景」においてそれは顕著である。先の記事は、これらの「書き下ろし」に注目したのだろう。
それにしても、荒川洋治という人は余程本が好きなのだろう。気に入った本なら、同じ本でも数冊所有し(わかる、わかる......)、かつてしばしば刊行された日本文学全集の類において、個別の作家に充てられた巻にどの作品が収載されたのか(文学全集の編者が個々の作家のどの作品を代表作と考えていたのか)を比較検討している。もはや、エッセイを通り越して、文学全集からみた出版史であり、文学史の様相を呈している。この徹底さ、彼のやり方なのだろう。
他の本をめぐるエッセイの多くは新聞の連載の再録。流行作品ではなく、かつてよく読まれたものが復刊されたのを機に取り上げているようだ。これは一つの手である。紹介されて読みたくなっても、なかなか手に入らないというのでは興ざめである。本書はよき文学(作品)案内であり、荒川洋治はよき文学の案内人である。そして、幻戯書房の最近の仕事、気になる出版社である。
それにしても、荒川洋治という人は余程本が好きなのだろう。気に入った本なら、同じ本でも数冊所有し(わかる、わかる......)、かつてしばしば刊行された日本文学全集の類において、個別の作家に充てられた巻にどの作品が収載されたのか(文学全集の編者が個々の作家のどの作品を代表作と考えていたのか)を比較検討している。もはや、エッセイを通り越して、文学全集からみた出版史であり、文学史の様相を呈している。この徹底さ、彼のやり方なのだろう。
他の本をめぐるエッセイの多くは新聞の連載の再録。流行作品ではなく、かつてよく読まれたものが復刊されたのを機に取り上げているようだ。これは一つの手である。紹介されて読みたくなっても、なかなか手に入らないというのでは興ざめである。本書はよき文学(作品)案内であり、荒川洋治はよき文学の案内人である。そして、幻戯書房の最近の仕事、気になる出版社である。
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