2014年4月1日火曜日

人文学と法律学との出会い

 先月末の話だが、『人文学と著作権問題』というタイトルの著書を中国関連書籍の出版社である好文出版から上梓した。単著ではない。「漢字文献情報処理研究会」が編集するかたちでの共著である。「漢字文献情報処理研究会」というのは、中国史や中国文学、中国語などを専攻する研究者の集まりで、特に東洋言語のデジタル化・漢字を中心にした文字のコード化に関心をもつグループである。これまで10年余りに及び、人文学の研究や教育に関する法律問題について、テーマを設定し、セミナー等で議論を深めてきた。本書の企画は、研究会発足から10年余りを経て、所期の目的を達成し、この会を解散させるに及び、これまでの検討の成果をまとめて、世に問おうというものであった。
 わたし以外は、いずれも人文学分野の研究者。法律の専門家は一人であったということもあり、必然、本書全体の構成や内容にも深く関わることとなった。人文学(人文科学)とは、学問の一領域で、英語でいうところのヒューマニティーズ(humanities)である。つまり、人間の多様性に関わる学問、具体的には歴史学、哲学、言語学、文学、美学、考古学、音楽学といった学問分野があてはまる。
 確かに、一見すると、これらいずれの学問分野も、法律学とはかかわりをもたなさそうである。しかし、彼らとの一連の議論を経て、これらの学問分野における研究や教育活動と法律学との間で見えてきたものがある。両者の接点である。
 接点のひとつは、学問それ自体の共通性である。わたしは、ここで法律学というものが、人文学を基盤とした学問であることを改めて認識した。法における価値判断は哲学に通じ、言語で表現された法文の解釈は、言語学の素養を要すると同時に、文学や美学の批評(クリティーク)の手法に類似している。
 いまひとつの接点は、研究・教育活動に付随して起こる問題との関連においてである。殊に、著作権との関わりに注目しておく必要がある。また、先月指摘したコンプライアンスとの関連でも、注意しておくべき点は多い。
 本書は、主として後者に関する著作ではある。しかし、議論の過程で学んだのは、むしろ前者であったといってよいし、事実、これを踏まえている点、普通の法律の本とは一線を画しているユニークなものである。
 だから、本書の英文タイトルを「Humanities meet Jurisprudence(人文学と法律学の出会い)」としたのである。

2014年2月12日水曜日

コンプライアンス=法令遵守?

 経済法という分野を専門としているせいか、企業の法務部門とは何かと関わりを持つことが多い。同じ法律を用いて仕事をしているはずなのに、学問の世界でほとんど聞かない言葉が、実務の世界に来るととても重要なものとして取り扱われていることに驚く。たくさんあるが、「コンプライアンス」という言葉はその代表格であろう。
 書店などでは「コンプライアンス経営」とか「コンプライアンス体制」といったタイトルの書籍もよく見かけるようになり、すっかり市民権を得たようだ。
 これまで、コンプライアンスは、企業活動に伴うリスクへの対処やその予防(リスク・マネジメント)との関わりで取り上げられてきた。金融リスク、財務リスク、商品・開発リスクや雇用リスクなど企業活動に伴うリスクには、じつに多様なものが考えられ、リスク・マネジメントとして語られるコンプライアンスは、法令違反や契約の不履行、権利侵害など法的なリスクが多くを占める。そのためかもしれない。いつのまにかコンプライアンスに「法令遵守」という訳語があてられるようになった。
 コンプライアンスに「法令遵守」という訳語をあてるのには違和感がある。コンプライアンス(compliance)は、comply(応じる、合致する)という動詞の派生語で、「共に +(糸などを)織る(com + plere)」というラテン語に由来する。ここから、「応諾」とか「合致する」という意味が出てくるわけだ。ちょうど日本語には「折り合う(織り合う)」という言葉があるが、こんなニュアンスではないかと思う。「法令遵守」とは似ても似つかない。
 コンプライアンスを考えるうえでステークホルダー(利害関係者)という概念が重要になる。企業は一つの社会的存在として、さまざまなステークホルダーと関わりを持ちつつ事業活動を行っている。ここで「関わり」というのは、契約など取引上の関係にとどまりまらない。その企業が立地する土地の住民や、地方自治体、国も含め、企業活動に関わりのある人びとを想定している。企業が社会のなかで存在し、事業を展開していくには、ステークホルダーの意向を理解し、受け入れ、社会の価値観に沿った経営をすることが求められる。
 このように、コンプライアンスとは、市民として自らの属する社会の要請を受け入れ、これと折り合いながら行動していくことである。こうした行動は、企業も市民としての義務や公共心に裏付けられた、より高い規範意識に基づかなければならないわけで、単なる「法令遵守」とはまったく異なるものなのである。

2014年1月8日水曜日

思考の現場に立ち会うということ

 いつも、身近な、目につきやすいところに置いてある一冊。小さな新書判の本なのだけど、もう何度読み返したか知らない。辻井喬さんの『詩が生まれるとき〜私の現代詩入門』。装いが改まるずっと前の講談社現代新書の一冊として一九九四年三月に出版された本だ。
 わたしは、この本を読むたび、いつも不思議な感覚におそわれる。建て替えられる前の三田・南校舎の教室の記憶……。この気分は、他からは決して味わえない無上のものだ。
 これには理由がある。わたしは、この本を一度「聴いている」。たしか法学部の学生だった九二年の秋、いまも続く「久保田万太郎記念講座」に、ビジネスの一線を退いたばかりの堤清二氏が、辻井喬として三田の山に現れた。毎週火曜日、全部で十一回の講義だったと思う。
 西武セゾングループを率いた堤氏に関心がなかったわけではない。だが、同氏の詩人・作家としての顔に、より魅かれ、興味を抱いた。俯き加減で、はにかんだその容貌は、どこか思弁的で、他の多くの経営者とは一線を画すものだった。
 講義は周到に準備されていた。時折目を落とす手元のノートはびっしりと小さな文字で埋められていた。渦巻きを描くように、思考の深みへと導いていく講義であった。詩を素材としながら、取り上げられる主題は哲学そのものだった。思考へと導かれ、思考の場に臨み、想像力とは何かを問いかけられた。
 講義の理解には、しばしば関連文献に手を伸ばすことも必要だった。西脇順三郎の『詩学』やテリー・イーグルトンといった文学理論というものに取り組んだのもこの講義に誘われてのことだった。少し背伸びが必要だった。
 詩というものを通じ、テクストを読むことがいかに創造的な活動であるかを学んだ。辻井さんが一つの詩論構築を試みようとする、そんな思考の現場に立ち会えた幸せを改めていまかみしめている。

法曹サービスの量と質

 ロースクール、ひいては法曹養成制度の見直しの中で、常に意識されながら、いまいちその本質が見えてこないのが、法曹人口の問題である。いや、平成24年現在、弁護士は32,134人、裁判官は2,880人、検察官は1,810人で、合計で36,824人と、いわゆる法曹三者の人口の数値的な現実はその推移も含め、むしろよくわかっている。
 よく見えないのは、この数値を「どう捉えるべきか」、そして「何をするべきか」である。これは、かつての司法改革の際も、いまの見直しの際も変わっていないように思う。
 まず、法曹人口の多寡に対する認識からして、かつてと今とではまったく違っている。司法改革前、これからの法曹需要に対する法曹人口の不足可能性がしばしば指摘されていた。だから、司法試験の段階ではなく、より早期の法曹養成段階で、法曹増加への要請に対応することが求められたのである。しかし、現在はその逆で、不足どころか過剰が問題である。
 この原因は、いったい何に求めるべきだろうか?かつての「見込み」が、この10年ほどで一気に収縮してしまったというのだろうか?それとも、この「見込み」がそもそも間違っていたのだろうか?真の見直しは、政策判断のもととなった認識の検証から、始められなければならないはずである。
 ところが、法曹人口が過剰と見るや、今度はその減少に向けて安易に舵が切られる。そして、批判の矛先は、品質に向かう。司法試験の合格者を増やし、法曹人口を増加させたから質が低下したといわれる。マスコミも、まだ実務にも出ていない司法修習生たちの試験(いわゆる「二回試験」)結果を「質の低下」の代理指標といわんばかりだ。
 どこの誰が、法曹サービスの品質を、試験時の学力で決めようというのか?高い品質の法曹サービスは、知識を豊富に持っている(覚えられる)ことが重要なのではない。重要なのは、利用者の意向に真摯に耳を傾け、彼らの問題を法的な知識を使って適切に解決する能力ではないのか?
 法曹サービスの品質は、このサービスの需要者である利用者(一般消費者や企業)から見ての評価でなければならない。われわれの評価以前に、真に適性のある法曹の出現が妨げられることの方が悲しいことのように思うのだが。

2013年11月6日水曜日

「ロースクール」を見る眼

 今年4月1日付で異動し、新しい職場になった。勤めて15年間を過ごした「産業研究所」という大学附置研究所から、大学院法務研究科、俗にいう「法科大学院」ないし「ロースクール」への異動である。
 ロースクールが制度として発足して10年余り。ロースクールの周辺は何かと賑やかだ。経営不振のため、撤退する大学が後を絶たず、予備試験合格者の台頭により、法科大学院の、さらには制度それ自体の存在意義さえ問われかねない状況にある。
 「何もこんな時期にわざわざ異動しなくても……」と意見、忠告する人も少なくなかった。わたしは、そういった意見や忠告にも真摯に耳を傾けた。異動についての大学内の諸事情については、あれこれ言うまい。もちろん、異動を拒否する選択肢もなくはなかった。だが、そうはいっても、自分が求められている場所で自らの能力を発揮できるのは、至上の喜びである。置かれた状況の中で、自らの役割を認識し、前向きに能力を活かす。これが大切だと考え、決断した。
 同じ大学内での異動である上、すでにロースクールで数年来講義を担当してきたことも手伝ってか、周りからはさほど大きな環境の変化とは映らなかったらしい。しかし、物理的・時間的な拘束は、前の職場よりもはるかに多くなり、学内の公職も増えた。
 しかし何より大きかったのは、精神的な変化、心境の変化である。それは、「当事者意識」の芽生えとでもいえるかもしれない。同じ大学内であっても、これまでのようにパートタイム(時間講師)的なかたちで関与するのとは大きく違う。「当事者意識」とは、ここでの教育全体に対する責任と直接的な利害関係である。異動後、こうした責任と利害関係を感じるのに、それほど時間はかからなかった。しかし一方で、これまで経験したこともない違和感を感じることもあった。
 マス・メディア等で、何かと話題になる法科大学院・ロースクール。どこか情緒的な報道ばかりで、今後を踏まえた一貫した問題提起がなされているとは思えないところがある。最近、インサイダーとなったばかりのわたしの目を通して、この問題を検討しておきたいと思う。

2013年10月7日月曜日

すっかり様変わりした出版流通

 今朝、本が届いた。アマゾンからである。たしか、一昨日の深夜に注文したから、もしかしたら注文のタイミングはすでに昨日になっていたかもしれない。だとしたら、翌日に本が届いたことになる。これには全く驚いた。アマゾンが米国で起業し、日本進出を遂げた約十数年前には、こうした状況は全く考えられなかった。
 かつては、講義の合間や移動中のちょっとした時間に、よく本屋さんに立ち寄ったものである。それこそ、一日に一度は必ず店頭で新刊書などをチェックしていた。しかし、最近はいささか状況が変化し、休日くらいしか書店に出かけられなくなってしまった。年齢とともに、予定がタイトになり、隙間時間が見出せなくなってしまったからである。
 こんな人に、書籍のネット通販はとても重宝である。本との出会いを求めるならば、確かに店頭で眺める魅力も代え難い。だが、物理的に出かけられないのだから、これしかない。次第にネット通販に頼るようになっていく。確かに、はじめは在庫さえあれば「読みたいときにすぐ読める」店頭買いが気持ちの上では優勢だった。ネット通販は、在庫があっても数日待つことも少なくなかった。しかし、今では圧倒的に時間が短縮された。
 出版市場が収縮している昨今、一人気を吐くアマゾンだが(書籍小売では日本最大の書店になった)、その勝因は書籍流通の本来的な機能である消費者の注文にきちんと対応していることが大きいと思う。刊行されている全ての書籍を店頭で在庫することは難しい。だから、書籍は本来的に注文で成り立っている流通なのだ。
 1980年代後半、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とわが国が自信に満ちあふれていた時期がある。そのとき、出版流通も「ナンバーワン」だと自負していた。確かにそうかもしれない。毎週660万部を発行していた「週刊少年ジャンプ」を発売日までに全国の書店に流通させていた訳だから。
 しかし、それが盲点だった。全国に一斉に配送できる流通網は、あくまで雑誌を念頭に置いたもの。注文流通においては必ずしも「ナンバーワン」ではなかったのである。刹那的で移り気な大量流通・大量消費への対応のみで成功を自認し、やや長期にわたる書籍の読者の購買行動への対応は疎かだった。たしかにどちらも消費者の意向といえるかもしれない。しかし、真に大切にすべきはどちらであったのか、その答えは現実という結果が示している。

2013年9月12日木曜日

グッド・ガバナンスの好機

 ここ数年、企業法務を専門とするビジネスパーソンや弁護士を中心に合宿を行っている。メンバーもずいぶんと増えて十数人を数えるようになった。先日も、箱根で二日間勉強をしてきた。わたしの専門から、どうしても独占禁止法・競争法が中心だが、必ずしもこれに限らず、ビジネス活動をしている中で問題となっているものはできるだけ取り上げ議論できるようにしている。
 今回は、テーマの一つにプロ・スポーツを取り上げた。プロ・スポーツと独占禁止法とはちょっと不思議な組合せと感じるかもしれないが、実はとても深い関係がある。特に欧米において。ちょうど、旧知の友人にスポーツ・エンターテインメント業界で活躍している弁護士がいたので、彼を紹介しこの研究会で報告してもらうことにした。内容は、プロ・スポーツにおける取引慣行(球団と選手の契約、球団間の協定、球団やその他の組織と企業等々)が、欧米においてどのように取り上げられ、ドラフト制度や保留権、フリーエージェント、ポスティング・システム等々の問題を、独占禁止法・競争法を使ってどのようにこれらの問題を解消してきたかについて説明を受けた。わが国においては、幾度となく改善へ向けた提案が主張され、そのたびに棚上げ、後回しにされてきた問題である。
 これらの問題については、どこかで話をすることもあるかと思うが、今回、一つ、とても印象に残ったことがある。ちょうど、2020年のオリンピック開催が東京に決まったその日、彼が言った一言だ。「イギリスでは、ロンドンオリンピックに向けて、スポーツ団体の改革が大きく進展した。それは、イギリスのスポーツ界に世界的な注目が集まったとき、スポーツ団体の組織運営に問題があったのでは、世界的に恥をさらすことになると皆が考えたからなのだ」。
 わが国も、全柔連の一連の不祥事など、スポーツ団体の問題には事欠かない。このオリンピックを機会に、業界団体の運営の問題に目を背けるのではなく、進んでこの問題に取り組んでほしいものだと思う。わが国は、「恥の文化」であるだけに。