2011年12月5日月曜日

「想定内」と「想定外」

今年も年の瀬が近づいてきた。いろいろなことがあった一年を、言葉を用いて総括するという習慣がわが国にはあるらしい。今年一年を漢字一字で表現したり、今年の新語や流行語、新製品などを東西の番付表で表したり。つい先日も、流行語大賞(正確には「2011年ユーキャン新語・流行語大賞」というらしい)が発表されたところだ。
 今年の流行語大賞、実は、わたしには密かに期するところがあった。震災以降、しばしば東京電力の幹部や政府関係者によって連発された「想定外」という言葉。これこそ、今年の流行語大賞にふさわしいと。ちょっと皮肉が過ぎるだろうか。ちょうど6年前、2005年の流行語大賞は、かのホリエモンが「想定内」で受賞しているのだ。
 「想定」とは、ある条件や場面、ありうる事態や状況を推測し、仮にそうである場合をさす。だから、「想定内」とは、あらゆる事態や状況を事前に予測し、それに対応していることを意味し、逆に「想定外」とは、ある事態や状況が予想していたものから逸脱しているため、それに対応できていないことを意味する。
 もしかすると、彼らの「想定外」発言連発の根拠は、「原子力損害の賠償に関する法律」(昭和36年法律第147号)にあるのかもしれない。この法律は、原子力損害についての原子力事業者の無過失責任を定めているのだが(同法3条)、この但書で「その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によって生じたものであるときは、このかぎりでない」との免責条項を設けている(同法3条但書)。しかも、これは国においても同様だ。いずれにせよ「想定外」は、責任の所在が自分にはなく、天変地異のため、という他者(あるいは人間を超えた存在)への転嫁の論理である。
 しばしば指摘されることだが、「想定外」というのはある種の経営感覚の未熟さであり、リスク感覚の欠如である。市場の状況は、つねに不確定な要素が入り込んでおり、こうしたリスクを織り込んだ判断をしていくことこそが経営者の役割である。こう見てくると、「想定内」を連発していたホリエモンが、いかに経営者として当たり前の発言をしていたかが分かる。経営者としてリスクを想定していなかったとということは許されないことを彼は分かっていたのである。
 かの「想定外」という言葉、今回の流行語大賞のノミネート語としては上がっていた。だが、年間大賞は「なでしこジャパン」が選ばれた。前向きな言葉を選んだのだろう。まだ、経営者がつかう「想定内」という言葉が、ホリエモンの尊大さへの卑屈な評価であったとしても、この言葉を前向きで流行語大賞にふさわしいとするそういう感覚は残っていてほしいものだと思う。

2011年11月28日月曜日

桜井英治著『贈与の歴史学---儀礼と経済のあいだ』(中公新書、2011年)

もともと、プレゼントをもらうのもあげるのも得意な方ではない。でも、まだあげる方がましかもしれない。逆に、プレゼントをもらうのは、かなり苦手だ。欧米人のように、プレゼントをもらうとそれをすぐ開封し、皆の閲覧に供するという振舞いが、どうしても自然にできない。その理由は、おそらくわが国の中世に遡る。桜井英治著『贈与の歴史学---儀礼と経済のあいだ』(中公新書、2011年)は、日本人の贈与に関する心性を余すところなく歴史学的視点から掘り下げられており、思わず膝を打ちたくなる箇所がたくさんある。それはそうとして、従来、贈与経済と市場経済は根本的に別と言われてきたが、儀礼としての建前主義・形式主義が行き着く先には、市場経済に近づいていくことが実証的に説明されている。だが、やはりすんでの所で、贈与経済は市場経済とは融合しない。この「すんでの所」でのせめぎ合いとエピソードがこの本の面白さ。クリスマス、お歳暮、バレンタインデー、ホワイトデーなどこれからの季節は「贈与の時期」。このタイミングで日本人の贈答文化の実は功利主義的な一面に目を向けるのも面白い。

2011年11月11日金曜日

ノーベル賞の季節

毎年10月には、ノーベル賞の各賞が発表される。かつては専門の関係もあってか、経済学賞の動向に関心が向いたものだが、最近は文学賞に目がいってしまう。いや、関心の問題というより、くだんの経済学賞が経済学という学問の最近の傾向を反映し、聞き慣れない人や業績の受賞がここ十年ほど相次いでいるからかもしれない。かつてノーベル賞の受賞といえば、多少専門から外れている人であっても、基本的な教科書をめくれば出てくるような、どこかで聞いたことのある業績や人に贈られたものである。あまりよくは知らないが、自然科学においても同様の現象が見られるのではないだろうか。
 その点、文学賞は変わっていないように思う。依然として、その国その国を代表する作家に贈られている。外国の作家のなかには、わが国であまり馴染みのない名前がとりあげられることもないわけではないが、そうはいっても、これはたまたま日本において紹介がなされていないだけのことであって、世界的にはよく知られた人である場合が多い。
 試みに、聞き慣れない作家や作品であっても、すこし大きな書店の該当の棚を覗けば、必ずと言ってよいほど、当該作家の翻訳作品に出会うことができる。翻訳によって近代化をなしたわが国の面目躍如である。
 では、今年のノーベル文学賞の受賞者をご存知だろうか。今年の文学賞は、スウェーデンを代表する詩人、トーマス・トランストロンメル氏である。氏は、これまでに何度も候補に上がっており、順当な受賞という評価であった。だが、大方の日本人には馴染みの少ない名前かもしれない。比較的寡作ではあるが、半世紀以上にわたり活躍し、世界的にもファンも多い。翻訳はすでに60カ国語に及ぶ。
 ただ、あいにくわが国では、1998年にたった一冊だけが翻訳されているにとどまる(『悲しいゴンドラ』思潮社)。この一冊もこの受賞までしばらく品切れであった。今回のことで、その後のいくつかの詩編を加え、増補版がひと月もしないうちに刊行されている。もっと彼の作品を読みたいと思ったわたしは、スウェーデン語は無理なので、英語版のいくつかを購入することにした。アマゾンで夜半過ぎに注文したら、夕方にはその本が自宅に届けられた。すごい時代である。

2011年10月18日火曜日

「自炊」の法律学(2)---「自炊」代行業

 前回は、著者が執筆した本を出版社が編集・製本して流通させ、やっとのことで書店などに並んだ本を、読者が買うそばからそれを裁断し「自炊」してしまうという何とも不思議な状況についてお話しました。
 確かに、本や雑誌を解体して裁断するというのは、本好きの人間にとってかなりハードルの高いことかもしれません。しかし、住宅事情にもよりますが、本の所蔵スペースが限られている人からすれば、とても重要な選択肢の一つだといえます。
 もちろん、本や雑誌の裁断は、これらを自ら購入して自分のものとしている以上、これらをどう使おうと持ち主の自由です。
 一方、本や雑誌の電子化はどう考えればよいでしょうか?これらの電子化は、著作権法上は「複製」となります。複製というかたちで利用するには、通常は複製権を有する著作者の許諾がなければなりません。
 ただ、これには法律上例外があります。すなわち、「私的使用」を目的とする複製については、このような許諾を得なくとも複製が可能となっています。そのためには、まず「個人的・家庭内」などの限られた範囲内で複製が行われること。また、複製はそれを使用する者が自ら行うこと、が必要です。
 したがって、自分で本や雑誌を買ってきて、自分の手元で一連の「自炊」作業を行うのであれば基本的に「私的使用」の範囲で理解することができます。当然、著作権法の問題になることはありません。
 しかし、「自炊」はページ数が重なれば、かなりの労力が要求される上に、きれいにスキャンするにはいくつかコツがあるようです。そうなると、こうした面倒な作業を代行する業者が現れてきます。最近では、本や雑誌を所有者から預かり、これを有料で電子化する業者が増えてきました。
 ここで問題となるのは、複製はそれを使用する者が自ら行わなければならないとする私的使用の条件との関係です。
 結論から言えば、代行業者に依頼する顧客がきちんと業者を管理・監督し、自分が預けた本や雑誌の電子データを勝手に保存したり、他に流用したりといった不正を行わないようにすることを条件に、これらの業者の存在を認める余地があると思われます。(おわり)

「自炊」の法律学(1)---「自炊」そのもう一つの意味

 「自分で飯を炊くこと」や「自分で食事を作ること」を、通常、「自炊」と呼んでいます。しかし、この言葉には、最近、もう一つの意味が付け加わり解されるようになりました。
 そのもう一つの意味とは、「本や雑誌をスキャンして(画像として取り込み)、電子化すること」。今、巷では電子書籍が何かと話題ですが、この「自炊」という言葉も、これとの関連で急にクローズアップされてきました。
 「自炊」は「自吸い」に由来すると言われています。かつて、アーケード・ゲーム(昔、ゲームセンターなどで置かれていたテーブル・ゲームのこと)が全盛の頃、その基盤に記憶・保存されているゲームのプログラムが入ったROMデータを特殊な機械を使ってPC(パソコン)へと「吸い出し」、自らエミュレータというソフトウェアを用いてPC上にそのゲームを再現する一連の方法を「自吸い」と呼んでいたようです。
 現在いうところの「自炊」行為も、本や雑誌の内容を画像として取り込むことを通じ、その内容を「吸い出している」ことには違いなく、これまでの「自炊」と類似しているといえなくもありません。
 当然のことながら、プログラムは著作物であり(著作権法10条1項9号)、そのROMデータをPCに「吸い出す」行為は複製(同法2条1項15号)に当たり、そのプログラムを創作した人の複製権(同法21条)を侵害することになるでしょう。仮に、この行為が私的使用のための複製(同法30条)の範囲で捉えられるとしても、多くの場合、使用許諾契約においてROMデータの「吸い出し」行為は何らかの形で制限されているはずですから、とても適法な行為とはいえないものです。
 実は、「自吸い」転じて「自炊」は、当初は全くのアンダーグラウンドな用語だったわけです。
 いま、本や雑誌をスキャンして、電子化する人が大変増加しているのだそうです。アマゾンという通販サイトでは、書籍だけではなく家電製品やステーショナリーなどを取りそろえているのですが、最近、ここで圧倒的な売り上げ誇っているのが、裁断機とスキャナなのだそうです。裁断機は「自炊」のために本や雑誌を裁断するためのものであり、スキャナは裁断した後の本や雑誌を画像として取り込むためのものだということは、容易に察しがつきます。(つづく)

2011年10月10日月曜日

コトがたり:Fetch

 頼まれて、久しぶりにあるホームページのメンテナンスすることになった。しかし、先日新調したPC(MacBookAir 11inch)には、いまだFTPクライアントをインストールしていない。すでにソフトのお目当てはあったが、すこしネットで探してもみた。だが、WIndows用、Mac用いずれも思ったより種類は多くはない。
 詳しくは知らないが、ブラウザ・ソフト等でFTPクライアント機能を備えるものが出てきたのかもしれないし、そもそもブログやツイッターが全盛の現在、いわゆるホームページで情報発信する人、しかもそのアップデートにFTPクライアントを使おうなどという人は少数派なのかもしれない。
 だが、往年のマックユーザーにとってFTPクライアントといえば「Fetch」おいて他にない。今ではすっかりその姿を見かけなくなったフロッピー・ディスクを、愛らしい犬が口に咥え(走っ)ているそのアイコンは、「モノを取ってくる」というよく見かける犬の芸当と、ファイル転送機能を有するこのソフトウェアとを、アナロジーによって結びつけている。そして、作者は「Fetch」というあまりにも直截的な名をつけた。
 「Fetch」の誕生は1989年。FTPクライアントでは最古参である。そのプログラムは、ダートマス大学のジム・マシュー(Jim Matthew)によって、主として大学内で使われることを念頭に書かれたものだ。やがて、シェアウェアとして一般ユーザーが利用できるようになったが、一方で、大学発のソフトらしく教育・慈善を目的とする組織での利用は、登録の上、無料である。
 誕生して以来、何年にもわたって、「Fetch」は順調に世界中のユーザーの支持を広げつつ、新機能の追加やバグフィックスを繰り返してきた。しかし、作者が大学において職務上開発したプログラムの一つに過ぎないこのソフトをユーザーの求めに応じて、定期的にアップデートしていくことは徐々に難しくなってきた。
 そんなとき、転機が訪れた。2000年12月放映の米国テレビ番組「the Who Wants to be a Millionaire show」への出演だ。この番組で勝利を得たジムは、大学とは独立してソフトの販売が可能なように、ダートマス大学から「Fetch」のソースコードと商標を買取り、Fetch Softworksを設立する。
 現在、「Fetch」は3人の常勤スタッフにより開発が続けられている。

2011年10月6日木曜日

「ガラケー」と「スマホ」

 毎度のことながら、日本人の略語のセンスには驚きを超えて閉口する。つけ毛や部分かつらを、しばしば「エクステ」と呼び(本来は「ヘアー・エクステンション」である。)、わが国独自の規格と仕様で展開してきたため、高性能でも世界では相手にされなくなってしまった携帯電話のことを「ガラケー」と呼ぶ。最近、急速にユーザー数を増加させている「スマートフォン」に至っては「スマホ」である。
 恥ずかしながら、この「ガラケー」が何のことを言っているのか、最近になって知った。何とも「ガラパゴス」と「ケータイ電話」とを合わせて「ガラパゴス・ケータイ」、略して「ガラケー」なのだそうだ。
 かのダーウィンが進化論の着想を得た南米エクアドルの西方900キロメートルに浮かぶ南太平洋上の島々・ガラパゴス諸島と、携帯電話。奇妙の取り合わせだが、携帯電話をめぐるわが国の状況と独自に進化したイグアナやゾウガメが生息するガラパゴス諸島の様相との類似性に着目した論考・北俊一「日本は本当にケータイ先進国なのかガラパゴス諸島なのか」(野村総合研究所『知的資産創造』2006年11月号)の問題提起にどうも由来しているらしい。
 これまで、わが国の携帯電話端末は、目の肥えた日本人向けに、非常に高度で洗練されたものが開発・販売されてきた、しかし、これらの商品は日本以外では通用しない。そのため、世界における日本製品の占めるウェイトは極めて低い。「洗練され高品質」であるにも関わらずである。
 なぜか。少なくとも、この背景にはいくつかの要因があるという。第二世代と呼ばれる携帯電話の端末規格をPDCという日本独自規格にこだわったため、欧州を中心に展開していたGSMに世界の市場を席巻されてしまったというのが、第一。第三世代携帯においては、第二世代の轍を踏まぬよう、世界標準に対応したものの、世界の需要の主流がいまだ第二世代であることを看過して、日本企業のみが3G対応端末を投入したことが、第二。そして、わが国の場合、携帯電話キャリアを中心とする垂直統合のビジネスモデルがもともと確立されていて、携帯電話端末メーカーは携帯電話キャリアの要求する仕様に応じて端末を開発・生産してきたことが、第三。
 ガラパゴス化を考える場合、規格・仕様・標準といった要素が深く関わっており、また、企業が採用するビジネスモデルが競争を規定しているといえそうだ。

2011年9月15日木曜日

宮崎市定『雍正帝---中国の独裁君主』(岩波書店、1950年)

 近々中国に出かけるから、と意識している訳ではないが、何となく手元にある中国関連書籍に手がのびる。帰省した折も、かつて読んだ中国の古典をあれこれ手に取っては眺め、実家の本棚の前に暇さえあればたたずみ、ページをめくっていた。古典とはいえないのだが、懐かしい一冊を見つけた。宮崎市定『雍正帝---中国の独裁君主』。岩波新書の青版で、手元にある本は、1989年に増刷。確か今上陛下が愛読であったか何かということで増刷されたものであったように記憶している。大学に入って、すぐに日吉の本屋さんで購入した覚えがある。康煕帝と乾隆帝の間にあってあまり目立たない人物であるがその功績に着目し、東洋的君主の典型的姿を活写した名著。一歴史学者の筆になる所為か、記述は実直素朴。珍しく平和で安定していた時代だったためか、時代活劇のような面白さは無い。しかし、雍正帝が政治をないがしろにせず、真面目に職務にあたっていた姿が、現実にやり取りした手紙の内容などから窺い知れ、その仕事ぶりだけでなく人柄をも想起することができるようになっている。資料の使い方など、実証主義的な姿勢がいかにも歴史学者らしく、爾来、宮崎市定の作品に魅せられたわたしは、この後に刊行される宮崎市定全集を学生時代になけなしのお金を投じて全巻購入するという暴挙するはめになったのは、まさに、この『雍正帝』という本のおかげである。

2011年9月6日火曜日

「○○目線」の強制力

 近頃、耳にするたびに、しっくりこないというか、半ば反発さえ感じてしまう言葉がある。「○○目線」というフレーズ。最近では「○○目線で考える」というふうに比喩的に使われることも多いようだ。
 わたしは、このしばしば政治家やマスメディアによって繰り返される「国民の目線」とか「消費者目線」というフレーズに、言いようのない強制力を感じ、いささかナイーブかもしれないのだが、嫌悪さえ感じてしまうのである。
 そもそも「目線」とは、「視線」の意の俗語であり、目を向けている方向をさしている。最近刊行された中村明『日本語・語感の辞典』(岩波書店・2010年)によれば、くだけた会話に最近よく使われるのだという。
 「目線」をやめて、「国民の視線」とか「消費者視線」というと、主に国民や消費者の興味や関心の対象、つまり「視線の先」に注意が向けられているように感じる。だが、「○○目線」というと、興味や関心の対象を見る目の位置又はそれをいう人の対象や問題への姿勢や態度といった「視線の源」に重みを置いた表現のように見える。しかも、その姿勢や態度が正当で、それを採ることを他者に求める、あるいは、それを強制し従わせるかのようなニュアンスを感じる。しばしば「目線」の前には「国民」とか「消費者」など一見正当な主張であることを裏付ける言葉が来るし、「上から目線」という言い方も影響しているのかもしれない。
 わが国には、ほかに「視線の源」を意味する言葉が豊かにある。たとえば、対象を見る目の位置や対象に対する位置取りを意味する「視点」、考察を加える際の立脚点をさす「観点」、物事の観察や判断、議論をする際にその人間が拠りどころとする立場をさす「見地」、ものを見たり考えたり論じたりする際の基本となる立場をさす「視座」、もっとも一般的な和語として「立場」があるだろうか。
 「視線」とは違い、「視線の源」を意味する「目線」は「視点」と置き換えることが可能である。だとすれば、「目線」を使わなくたっていいではないか。それでもなお、「目線」を用いる背景は、根拠無き主張を相手に押し付ける話者の傲慢ではないかとさえ思う。
 アプローチは異なるものの、わたしと同様、近頃の「目線」に違和感を持っていたのが先の『語感の辞典』であった。この「目線」の項目には、辞典としては不自然なくらい情緒的な蔑みの言葉で記されている。すなわち、「......芸能界やマスコミなどの業界の仲間内のことばが、わかりやすいこともあり電波をとおして一般に広ま」った。「......改まった会話や硬い文章で使うと今でも品格を落としかねない」と。