2013年11月6日水曜日

「ロースクール」を見る眼

 今年4月1日付で異動し、新しい職場になった。勤めて15年間を過ごした「産業研究所」という大学附置研究所から、大学院法務研究科、俗にいう「法科大学院」ないし「ロースクール」への異動である。
 ロースクールが制度として発足して10年余り。ロースクールの周辺は何かと賑やかだ。経営不振のため、撤退する大学が後を絶たず、予備試験合格者の台頭により、法科大学院の、さらには制度それ自体の存在意義さえ問われかねない状況にある。
 「何もこんな時期にわざわざ異動しなくても……」と意見、忠告する人も少なくなかった。わたしは、そういった意見や忠告にも真摯に耳を傾けた。異動についての大学内の諸事情については、あれこれ言うまい。もちろん、異動を拒否する選択肢もなくはなかった。だが、そうはいっても、自分が求められている場所で自らの能力を発揮できるのは、至上の喜びである。置かれた状況の中で、自らの役割を認識し、前向きに能力を活かす。これが大切だと考え、決断した。
 同じ大学内での異動である上、すでにロースクールで数年来講義を担当してきたことも手伝ってか、周りからはさほど大きな環境の変化とは映らなかったらしい。しかし、物理的・時間的な拘束は、前の職場よりもはるかに多くなり、学内の公職も増えた。
 しかし何より大きかったのは、精神的な変化、心境の変化である。それは、「当事者意識」の芽生えとでもいえるかもしれない。同じ大学内であっても、これまでのようにパートタイム(時間講師)的なかたちで関与するのとは大きく違う。「当事者意識」とは、ここでの教育全体に対する責任と直接的な利害関係である。異動後、こうした責任と利害関係を感じるのに、それほど時間はかからなかった。しかし一方で、これまで経験したこともない違和感を感じることもあった。
 マス・メディア等で、何かと話題になる法科大学院・ロースクール。どこか情緒的な報道ばかりで、今後を踏まえた一貫した問題提起がなされているとは思えないところがある。最近、インサイダーとなったばかりのわたしの目を通して、この問題を検討しておきたいと思う。

2013年10月7日月曜日

すっかり様変わりした出版流通

 今朝、本が届いた。アマゾンからである。たしか、一昨日の深夜に注文したから、もしかしたら注文のタイミングはすでに昨日になっていたかもしれない。だとしたら、翌日に本が届いたことになる。これには全く驚いた。アマゾンが米国で起業し、日本進出を遂げた約十数年前には、こうした状況は全く考えられなかった。
 かつては、講義の合間や移動中のちょっとした時間に、よく本屋さんに立ち寄ったものである。それこそ、一日に一度は必ず店頭で新刊書などをチェックしていた。しかし、最近はいささか状況が変化し、休日くらいしか書店に出かけられなくなってしまった。年齢とともに、予定がタイトになり、隙間時間が見出せなくなってしまったからである。
 こんな人に、書籍のネット通販はとても重宝である。本との出会いを求めるならば、確かに店頭で眺める魅力も代え難い。だが、物理的に出かけられないのだから、これしかない。次第にネット通販に頼るようになっていく。確かに、はじめは在庫さえあれば「読みたいときにすぐ読める」店頭買いが気持ちの上では優勢だった。ネット通販は、在庫があっても数日待つことも少なくなかった。しかし、今では圧倒的に時間が短縮された。
 出版市場が収縮している昨今、一人気を吐くアマゾンだが(書籍小売では日本最大の書店になった)、その勝因は書籍流通の本来的な機能である消費者の注文にきちんと対応していることが大きいと思う。刊行されている全ての書籍を店頭で在庫することは難しい。だから、書籍は本来的に注文で成り立っている流通なのだ。
 1980年代後半、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とわが国が自信に満ちあふれていた時期がある。そのとき、出版流通も「ナンバーワン」だと自負していた。確かにそうかもしれない。毎週660万部を発行していた「週刊少年ジャンプ」を発売日までに全国の書店に流通させていた訳だから。
 しかし、それが盲点だった。全国に一斉に配送できる流通網は、あくまで雑誌を念頭に置いたもの。注文流通においては必ずしも「ナンバーワン」ではなかったのである。刹那的で移り気な大量流通・大量消費への対応のみで成功を自認し、やや長期にわたる書籍の読者の購買行動への対応は疎かだった。たしかにどちらも消費者の意向といえるかもしれない。しかし、真に大切にすべきはどちらであったのか、その答えは現実という結果が示している。

2013年9月12日木曜日

グッド・ガバナンスの好機

 ここ数年、企業法務を専門とするビジネスパーソンや弁護士を中心に合宿を行っている。メンバーもずいぶんと増えて十数人を数えるようになった。先日も、箱根で二日間勉強をしてきた。わたしの専門から、どうしても独占禁止法・競争法が中心だが、必ずしもこれに限らず、ビジネス活動をしている中で問題となっているものはできるだけ取り上げ議論できるようにしている。
 今回は、テーマの一つにプロ・スポーツを取り上げた。プロ・スポーツと独占禁止法とはちょっと不思議な組合せと感じるかもしれないが、実はとても深い関係がある。特に欧米において。ちょうど、旧知の友人にスポーツ・エンターテインメント業界で活躍している弁護士がいたので、彼を紹介しこの研究会で報告してもらうことにした。内容は、プロ・スポーツにおける取引慣行(球団と選手の契約、球団間の協定、球団やその他の組織と企業等々)が、欧米においてどのように取り上げられ、ドラフト制度や保留権、フリーエージェント、ポスティング・システム等々の問題を、独占禁止法・競争法を使ってどのようにこれらの問題を解消してきたかについて説明を受けた。わが国においては、幾度となく改善へ向けた提案が主張され、そのたびに棚上げ、後回しにされてきた問題である。
 これらの問題については、どこかで話をすることもあるかと思うが、今回、一つ、とても印象に残ったことがある。ちょうど、2020年のオリンピック開催が東京に決まったその日、彼が言った一言だ。「イギリスでは、ロンドンオリンピックに向けて、スポーツ団体の改革が大きく進展した。それは、イギリスのスポーツ界に世界的な注目が集まったとき、スポーツ団体の組織運営に問題があったのでは、世界的に恥をさらすことになると皆が考えたからなのだ」。
 わが国も、全柔連の一連の不祥事など、スポーツ団体の問題には事欠かない。このオリンピックを機会に、業界団体の運営の問題に目を背けるのではなく、進んでこの問題に取り組んでほしいものだと思う。わが国は、「恥の文化」であるだけに。

2013年8月16日金曜日

【知里真志保『アイヌ語入門---とくに地名研究者のために---』(北海道出版企画センター・1985年)】

 北海道の実家に帰ると、ひまさえあれば天井まであるスチール本棚の前にいる。そして、中学・高校・大学とかつて読んだ本を引っ張り出してはしばし立ち読みに興じる。
 今回は、帰省する前に立ち寄った札幌の本屋さんで、たまたまアイヌ関係の本をいくつか目にし、複数冊購入していたこともあり、実家でもそれが気になって、アイヌ関連の本ばかりを眺めていた。中でも、知里真志保の『アイヌ語入門---とくに地名研究者のために---』(北海道出版企画センター・1985年)は、語学の入門書ではあるが、いま読んでもたいへん面白く、この一冊を今回再び自宅に持ち帰ることにした。
 確か10年ほど前、青山ブックセンターの六本木店で、「著名人の本棚」という企画があり、そこで音楽家の坂本龍一氏がこの本を選んでいたのが出会い。かつて国語の教科書で取り上げられていた知里幸恵の『アイヌ神謡集』の一節「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」というフレーズしか記憶になかったわたしが、アイヌ語やアイヌ、アイヌ文化というものにひきつけられるきっかけになったのがまさにこの本だ。
 知里真志保は、『アイヌ神謡集』の著者の知里幸恵の弟にして言語学者。丁寧かつ厳密なアイヌ語理解から導きだされる解釈は他の追随をよせつけない。確かに本書はやさしい書き出しではあるものの、これまでの先行業績があまりにも杜撰なことから、やがてガマンならずにヒートアップしていく。そのテンションが、語学書らしからぬ異様な面白さを醸し出す。アイヌの人びとのものの考え方とそれに裏付けられた厳密な文法解釈。当時権威とされていたジョン・バチェラーの『アイヌ・英・和辞典』(岩波書店・昭和13年)や永田方正の『北海道蝦夷語地名解』(北海道庁・明治24年)が格好の餌食となり、徹底的に批判される。
 権威に迎合しない知里真志保の学問の真骨頂である。

2013年8月15日木曜日

【「クローズアップ現代詩」『SPUR』2013年9月号】

 柄にもなく『SPUR』といういわゆる「赤文字系」(?)ファッション誌を買ってみた(『SPUR』が真に赤文字系かどうかは中身を知らないので評価はできない)。たまたま眺めていたTwitterで「『SPUR』9月号で荒川洋治が現代詩について語っている!」という書き込みを見たからだ。
 実際、本屋に行って『SPUR』を見ると、表紙にはそんな記事が載っているなんて出ていない。だから、買うときにはちょっと勇気が要ったが、256ページ以下の「クローズアップ現代詩」(タイトルは某公共放送の有名番組を狙ったもの!)という6ページにわたる記事は、「さすが荒川洋治!」と唸らせる柔らかくも硬派な現代詩の紹介となっていた。
 「世間にあふれる、安易な”感動”やお手軽な”癒やし”に、ちょっとうんざりしていませんか?」と何とも挑戦的な一言。現代詩についての素朴な疑問に荒川流の見事なお答え。わずかな紙面にポイントを押さえた解説が加えられている。詩の世界はそれ自体を味わうのがベストであって、解説を加えると得てして野暮になるのだが、荒川洋治の手にかかればそんなことはない。上手い具合に鑑賞の手ほどきをしてくれているし、われわれを上手に詩的な気分へと導いてくれている。
 「うまいなぁ」と思わず感心したのが「どの詩人から読むのがいいの?」という問いへの答え。「親しみやすくて深い詩を知りたい→黒田三郎、辻征夫。ことばに戦慄したい→吉岡実、谷川雁。意識を拡張したい→飯島耕一、伊藤比呂美。人間の極限を知りたい→石原吉郎、井坂洋子。・・・」。ここに現れた全員の詩を読んだ訳ではないが、確かに吉岡実と谷川雁には「戦慄」したし、石原吉郎や井坂洋子には「極限」を感じた。
 「ことばの組み合わせから生まれる、新しい世界」へのごく短い、ささやかな誘い。それにしても、一体誰がこんな企画を持ち込んだのだろう。。。楽しませてもらったけど。。。

【猪木武徳『公智と実学』(慶應義塾大学出版会、2012年)】

 折に触れ、その人がどんなふうにモノを見ているかを参照したくなる知識人がいる。その人の著書を身近においておきたいと思う人がいる。わたしにとって、猪木武徳氏はそんな存在だ。大学学部時代に読んだ『経済思想』(岩波書店、1987年)は、法律学を専攻していたわたしにとってもきわめて有意義な内容で、その後に起こった数多くの困難な問題に直面したときにも、常に振り返り重要な示唆を得ることができる一冊となっている。また、20代のときに、ここで取り上げられた法学・哲学・経済学等の古典をしらみつぶしに取り組んだことが、自らの市場観、資本主義観を育むことにつながったように思う。その後に刊行された書き下ろしの『戦後世界経済史---自由と平等の視点から』(中央公論新社、2009年)や『自由と秩序---競争社会の二つの顔』(中央公論新社、2001年)や、エッセイなどをまとめた『デモクラシーと市場の論理』(東洋経済新報社、1997年)も、共感するところが多く、いまもなおしばしば読み返す。
 去年刊行された『公智と実学』(慶應義塾大学出版会、2012年)は、数多い猪木氏の著作の中でもちょっとユニークな一冊である。前半は、新聞紙上などで公表された時論をまとめ、後半は講演録で関係諸誌に掲載されたものを収録している。一見するとそれだけかと思いきや、ここで取り上げられているのは、いずれも福澤諭吉の思想に触れたものばかり。『学問のすすめ』や『文明論之概略』など主要な著書が取り上げられ、猪木氏の読みが示される。
 本書のタイトル『公智と実学』の「公智」とは、「人事の軽重大小を分別し、何を優先すべきか時と場所とを察しつつ判断する働き」のことで、「物の理を究めてこれに応ずる働き」である「私智」とは区別される。「私智」とは、福澤先生に言わせれば「工夫の小智」であり、学校で習うような知識、すなわち受験勉強のようなもの。しかし、文明にとって真に大切なのは、大局的な価値判断能力(もちろん、「工夫の小智」に裏付けられた)。福澤先生が言うところの「聡明の大智」(=公智)。福澤の思想はしばしば「私」の思想と捉えられがちだが、じつは「公(パブリック)」を意識した思考の体系であることが猪木氏の語りによって明らかにされる。
 猪木先生の良さは、経済問題などの社会的な問題に対する分析には「実学」、つまり「サイエンス(科学)」の方法をもってし、その価値判断の基底には浩瀚な人文学的教養(ヒューマニティーズ)を有していることである。きっと、このことが単なる有識者・学識経験者にとどまらない、その領分をはるかに凌駕した知識人とみられる所以なのだと思う。

【『政治わが道---藤山愛一郎回想録』(朝日新聞社、1976年)】

 新橋駅のSL広場で折に触れ開催される古書市。わざわざ出かける必要がないので、いまでは神田の古書街よりもよっぽど身近な存在である。先日そこをブラついていて偶然見つけたのがこの本『政治わが道---藤山愛一郎回想録』。藤山さんの最後の著作で、確かに、この本の中でもご本人自ら「この『回想録』をもって、もうあまり過去は語らないことにしようかとも思っている」と書いている。
 本書は、内容的には先の『私の履歴書』の続編。財界人を「卒業」し、政界に移った後の回想録である。岸信介の盟友として懇願され、財界から政界への華麗なる転身。外務大臣として取り組んだ安保改定とそれに先立つ外交交渉の緊張感。三度にわたる総裁選への挑戦と政治力学に翻弄され、影響力を徐々に失っていく藤山派の落日。失意を跳ね返すように取り組んだ日中友好。
 「事実は小説よりも奇なり」というが、藤山さんの人生こそ、それに相応しい。
 財界人のときは、20社以上の社長を務め、政界に入ってみると収入は20分の1になっていたという。自ら率いていた企業グループの株式や集めていた絵画の数々、白金にあった土地や邸宅などを派閥維持のために投じ、政界を引退するときには私財はほとんど残っていなかった。そんな自らを評し「絹のハンケチも泥にまみれたよ」と言ってのける、見事な「井戸塀」ぶり。
 玄人筋からいえば、本書の記述が、踏み込みが足りないとか、もう一つの裏面があったのでは?と思わせる点もないわけではないようだ。だが、本書は、きっと藤山さんの率直な感想を綴ったものであり、その見たまま、感じたままを記したものなのだろうと思う。藤山さんは、そんな打算などとは無縁の人だった。もし、打算的に行動し、人の裏読みに長けた人ならば、このような散財を自ら買ってはしないはずだからである。

2013年7月8日月曜日

主語によって現れる憲法の意味---「伝統」というもののとらえ方(2)

 昨年の427日に公表された自由民主党による「改憲草案」の憲法前文は、以下のとおりである(なお、改行と段落の箇所にはスラッシュ(/)を入る)。
 「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。/我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。/日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。/我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。/日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する」。
 憲法前文の重要性はいまさら語るまでもない。前文は、憲法を制定するに至った背景や理由、そしてその目的を明らかにするだけでなく、これにつづく具体的な規定を解釈する際の指導原理にもなる。新たな基本的人権のよりどころとなる場合だってある(少なくともこれまでは)。
 ぜひ現行の日本国憲法と読み比べてもらいたい。草案の内容は一見するともっともにみえる。しかし、この憲法草案に対する違和感は拭えない。もちろん、ここでは日本語としての美しさやリズム感についての問題は別である(主観的な問題だと言われるので)。
 前文冒頭に見える文章の主語に着目する。現行の憲法では、前文各文の主語はいずれも「日本国民は......」の言葉で始められていることに気づく。憲法草案ではどうか。冒頭の文章の主語は「日本国」である。「日本国民」が主語になるのは、三段落目以降からである。
 憲法全体の基調を奏でる前文において、主語はことのほか重要だ。誰が主体となって憲法が制定されるに至ったのか、したがって誰の下に主権というものが存在するのかを一つの単語によって記すのではなく、文章全体をもって語るからである(つづく)。 

2013年6月10日月曜日

一年余を経て取り上げられた「自民党改憲草案」---「伝統」というもののとらえ方(1)

 安倍政権発足と同時に、にわかに出現した憲法96条の改憲論議は、ここにきてややナリを潜めたようである。しかし、憲法の「改正規定」の見直しという変則的なやり方であるとはいえ、支持率の高い現政権による主張でもあり、憲法改正への具体的な道筋が幾分なりとも明らかにされたということで、しばらくの間、静かだった国会における憲法論議も少しずつ先へと歩みをはじめたようにみえなくもない。
 周知のように、わが国における改憲論議は、戦後一貫して保守の文脈あるいは主導の下で進められてきた。今回もそれは変わらないようだ。
 ちょうどいま東京新聞で、「検証・自民党改憲草案---その先に見えるもの」という連載が進んでいる。タイトルにある「自民党改憲草案」は、昨年(2012年)4月27日に自由民主党により決定・公表されたものである。現行憲法と比較対象が可能なかたちでこの草案を俎上にのせ、これを作った起草委員会に所属する自由民主党の代議士による説明とそれに対する護憲派のコメントを併せて掲載し、検討を進めるというスタイルである。公表後一年以上を経て、今さらながら改めて記事として取り上げられたのは、冒頭のように、にわかに改憲論議に注目が集まったからということであろう。
 この手の企画を東京新聞が取り上げたのは今回が初めてではない。急に高まった永田町での改憲論議を受け、いまから10年ほど前にも同様の試みが行われていた(これは後に東京新聞政治部『いま知りたい日本国憲法』(講談社、2005年)として単行本化されている。内容についてここで触れる紙幅はない)。

 実は、このときから改憲論議において少々気になり、違和感を感ずる点がいくつかあった。そのうちの一つは、必ずしも法的な論点とはいえないのだが、大切な問題のように思われた。その問題とは、憲法草案のなかで明らかにされている「伝統」というもののとらえ方である(つづく)。

2013年4月9日火曜日

「あまりのある割り算」一〇〇問プリント


 ここ数日で、新学期が始まったようである。わが家の隣にある小学校は、先日の金曜日から。そして、長女が通う小学校は、週末を経た月曜日から新学期がはじまるらしい。この四月で四年生になる長女も、春休み最終日となった日曜日、残していた宿題を朝からせっせと片付けている(最近の小学校は春休みにも宿題が出るようだ・・・)。
 せっかくの休みでも、家族の一人がこんな感じだと、皆どこかへ出かけるという気分にはならない。わたしも、リビングで新聞などを読んだ後は、何となく書斎に足が向き、机を共用している長女の宿題が気にかかる。長女もそれは多少織り込み済みで、問題につまづくと、書斎の本棚を物色しながら本を立ち読みしている父親に質問を投げかける。まだ、小学四年生程度の問題なら、多少込み入ったものでも、それなりに対応できる。親が子どもたちのする勉強や宿題すべてに対応できるのは、今のうちだけかもしれない。すぐに難しくなる。
 いや、すでに難しくなっている。最近は「百マス計算」なるものが、小学生の定番となり、いまやそれ専用のノートまで売り出されているようで、毎日彼女たちはこれで鍛えられている・・・。彼女の宿題の一つに、三年生で習う「あまりのある割り算」を一〇〇問印刷されたプリントがあった。これを7分の制限時間以内に終えることが目標だという。彼女は、何回やってもなかなか目標には届かない。
 横でハッパをかけるだけでは説得力がないと、わたしもやってみたら、11分をこえてしまう始末。全然、目標どころではない。確かに、昔から計算は遅い。一〇〇問もあると、集中力が途切れる瞬間がある。「これではいかん」と持ち直し、何とか終わりに至る。ただ、7分となると集中力だけではなく、式と数字を見た瞬間の反射的に解答しなければ、かなわないスピードのように思える。長女に聞いたら、同じクラスに7分以内でできる児童が何人もいるのだそうだ。
 確かにすごい。しかし、ここまで長く(!?)生きていると、疑問というか、言い訳が湧き出てくる。たとえば、一〇〇問連続した問題に制限時間を設けて解答しなければならないことが、果たしてその後の人生で課題となることはあるだろうか?と。集中力を養うことは大切だが、別に計算問題以外でもそれを養うことはできる。わたしは、計算力は低いが集中力は人一倍あるつもり。反射神経で問題が解消できるのは、計算問題くらいで、多くの問題はそんな単純ではない。
 かつて、付属校で社会科を教えていたとき、経済学部に進学を希望する女子生徒が「数学に自信が持てず、経済学部に進んで大丈夫か」と心配していた。わたしは、自身の経験から「経済学で必要とされる数学は、たくさんの問題を制限時間以内に解答することではない。数少ない問題だが解き方も定かではない問題を時間無制限で解答するものだ」と答えた。法学部法律学科出身のわたしがかつて経済学論文を仕上げたときの率直な感想だ。彼女は、無事経済学部に進んだ。もちろん、計算の速さも大切だ。だが、わが国の教育は、反射神経頼りの数学好きだけを育てていないだろうか?「あまりのある割り算」一〇〇問プリントをやり終えた疲弊したわたしの頭はこんなことを思い出していた。

2013年1月7日月曜日

【会田誠『カリコリせんとや生まれけむ』(幻冬舎、2012年)、同『美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか』(同)】


 現代美術(コンテンポラリー・アート)は嫌いではない。いや、最近わざわざ出かけるのはむしろこっちの方が多いかもしれない。
 先日、やっとのことで森美術館で開催中の「会田誠展:天才でごめんなさい」を見にいくことができた。なかなか時間が取れなかった上に、しかもこの展覧会、一部作品を展示するギャラリーは18歳未満が入場できない。したがって、家族や子連れではちょっと出かけにくい。結局、年始のちょっとした時間に足を運ぶことになってしまった。
 たまに眺める『美術手帖』誌が、年末、会田誠の特集をしており、そのエッセイが面白かったので、同氏のエッセイ集2冊を買い込み、正月の間読んでいた。2010年に刊行されこのほど文庫化された『カリコリ〜』と、この展覧会に併せて刊行された『美しすぎる〜』。いずれも、基本的に幻冬舎のPR誌『星星峡』に連載されていたエッセイをまとめたもの。よしもとばななも絶賛する文章のうまさと、鋭い批評性に引き込まれ、その延長線上で彼の作品にも興味をもった。
 エロ・グロ、悪趣味など、会田誠作品は、現代美術にありがちなあらゆる毀誉褒貶が常につきまとう。だが、「芸術とは触媒」と彼が述べるように、作品が先鋭的で、その題材や表現手法がショッキングであればあるほど、社会は快感、いや彼の場合多くは不快感をもってこれに応ずることになる。そして、この反応こそが、いまの社会の有り様を示しているのである。時代が芸術を生み出すのではなく、芸術が時代を問う。会田作品を見ていると、彼のメッセージを受け取るというのどかな気分よりも、同時代に生きる彼の切羽詰まった感情の匕首がわれわれに突き立てられているようで緊張する。
 とはいいながら、エッセイは、ある意味不真面目でとてもユルい。ときおり見せる批評性の鋭さは、読者が後になって気づくような天然ぶり。この手の人にありがちなモノゴトへの執着ぶりは異常といってもよく、殊にファンであったらしい大場久美子の先進性についてを語る部分は出色である。
 わたしは、会田誠の大場久美子に対する思い入れについて書かれたこの部分を読んだとき、万城目学が『鴨川ホルモー』で鉤鼻の女性の麗しさについて数頁(?)にわたり述べていたことを思い出した(まったく関係がないのだが)。