そういえば、ここしばらく手紙というものを書いていなかった。依頼やお願いごとは専らeメール。礼状は妻まかせ。自らペン/筆を執っても簡単な一筆箋で済ますこともしばしばであった。
ところが、年明け早々、ひょんな理由で何通もの手紙を書かねばならなくなった。かつてはよく書いていた。それが、学生時代からの一つの癖のようにもなっていた。郷里から離れてしばらくは両親に宛て、学生のころは世話になっている師に宛て、婚約していたときは将来の妻に宛て......。
手慣れたもので、長いものでもそれほど時間はかからなかった。便箋に封筒、切手に万年筆は、常に持ち歩いていた。別にマメな性格ではない。単に文字を書くことが好きで、ペンや筆を思いつくまま滑らせていた。
便箋などをあれこれ気にするようになったのは、大学の頃であったろうか。ちょうど書を習っていたころ、師へのお礼や連絡は原則手紙であった。電話で連絡をする際にも、電話をかける日時をあらかじめ手紙で伝えるほどの丁寧さであった。これが伝統であった。毎週、少なくとも5-6通は書き送っていたと思う。
手紙の体裁にも人一倍気を遣った。相手は書の先生である。初めて先生に宛て書いた手紙は、5時間以上もかかってしまった。
手紙にまつわるいろいろな作法やルールもそのとき覚えた。その手の本もずいぶんと読んだ。やがて、手紙を書き送るのが頻繁になると、これらの作法やルールの中に、あるいはそれらをこえて、一工夫や楽しみを見つけるようになる。
例えば「時候の挨拶」。受け手は当然のことながら、送り手にとっても書くことで季節を感じるこの上ない瞬間である。だが、案外大事にされていない。書き慣れていない人の「時候の挨拶」は実に単調でつまらない。おそらく「親切すぎる」実用本と「優秀すぎる」ワープロソフトの賜物だ。
確かに、大方の人にとり手紙を書くときの最初の躓きは「時候の挨拶」である(その証拠にわたしの妻は常にここで躓いている)。しかし、手紙を数書くようになると、おのずと頭に浮かんでくる。ちゃんと自然や季節の移り変わりに目が向いているからだ。でも、最初からこれを求められるととても辛い。実際、わたしもそんな感性なんてつゆも持ち合わせていなかった。
そんなとき、この便箋に出会い、以来変わらず使い続けている。シルクスクリーンで描かれた美しい鳩居堂の便箋。身近な草花が一枚ごと代わる代わる配され、ちょっと早めに店頭に並ぶ。
——この絵柄を少しの間だけ記憶に止めておくことにしよう。そして、辺りにこれらの花が咲いたとき、仕舞っておいたその便箋を取り出そう。
さすがに、この便箋の絵柄のために「時候の挨拶」を略して構わないということにはならないだろう。けれど、これらの草花をどこで見つけただの、どんな具合に咲いていただのを書いていくと、自ずと「時候の挨拶」になっているから不思議である。かつてのわたしも随分と助けられた。
件の手紙のために、年明け早々、わたしは鳩居堂へ向かった。あの便箋も変わらず店先に並んでいた。「降りしきる」と銘打たれたその便箋は、梅の枝に雪があしらわれていた。稀に見る暖冬の東京。今年は、この便箋を使わずに春を迎えることになるのだろうか。
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(*)慶應義塾大学書道會機関誌『硯洗』63号(2007年3月)より転載
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