2007年4月19日木曜日

名文"家"の条件

セメスター制がわたしの勤務する大学にも定着したらしく、半期ごと(春と秋)、ほんの幾人の学生が、わたしの下で論文を書き上げ、そして卒業していく。締切を控えた十一月(春卒業)と六月(秋卒業)は、彼らにとって気の毒な話かもしれないが、一ヶ月余の期間、毎週土曜日を返上し、一対一で議論しながら論文を仕上げていく。学部に所属していないわたしの下で論文を執筆するのは、すべてが通信教育部の学生たちであり、その多くは平日仕事を持ったビジネスマンや公務員である。彼らにとってじっくり論文について議論が出来るのは土曜日くらいなものである。日曜日は前日の議論を踏まえ、その手直しに充てられるのだから。
この時期、わたしは「壊れたレコード」のようになる(この比喩は死語となりつつあるかもしれない。今流に言うと「傷ついたCD」か)。
当然、各々の論文はテーマも違えば内容も随分と異なる。したがって、内容について議論しようとするかぎり、決して「壊れたレコード」のようにはならないはずだ。だが、実際にそうなってしまうのは、各人に対する論文指導が文章指導を伴うものだからである。
この半期に一度繰り返される論文指導ならぬ文章指導は、奇しくも自らの文章に対する何らかの評価基準を開陳する場になり、かつ、そのことを自身で逐次確認する場にもなっている。
数多くのカタログの中でも指導のかなり早い段階でしばしば登場するレパートリーが「名文家の条件」である。
名文家の文章は、わたしが見るところ、三つの要素が備わっている。一つは、一文(句点までの距離)が長いということ(長=文章)、いま一つは、主語がしばしば欠如するということ(欠=主語)、そして最後に接続詞が少ないということ(少=接続詞)である。
いかがだろうか。疑問符がチカチカ点っている人もいるかもしれない。というのも、この三つ、いずれもが常識的には名文の要素とされている明晰性や透明性とは正反対のことを述べているからである(ただし、この明晰性も透明性もその指し示す意味合いの幅は一定ではないようだ。前者については蓮實重彦の『反=日本語論』(ちくま文庫)所収「明晰性の神話」を、後者については井上ひさしの『自家製・文章読本』(新潮文庫)所収「透明文章の怪」をご覧あれ。)。この話をすると多くの人が怪訝な顔をする。この人は何を言い出すのかと言わんばかりだ。望むところである。
きっと、人は名文を書こうとしている。あるいは、名文が書きたい。だから、そんなコツがあれば知りたいし身につけたい。市中に出回る文章本はそれを揶揄し嘲笑する本(齋藤美奈子『文章読本さん江』筑摩書房!)でさえ、そのことを物語っている。でも、名文家ではないわたしに名文を教えることができようか。仮に名文家であったとしても、ここでそれを伝えるつもりは毛頭ない。
先に述べた三つの要素、これらは「名文の条件」ではなく「名文家の条件」なのである。つまり、日本語を文章の中で巧に操ることができる人以外は、文章に透明性を失わせる「長=文章」は止めておいた方が身のためだ。主語がきちんと明示され述語と有意に結びついていた方が読みやすいに決まっている。まして、筋道や論理関係を明らかにする適切な接続詞の配置は不可欠だ。この要素を破りながらもなお常人が評価可能な文章を書けるのが名人=名文家。そう、わたしが言いたいのは一つだけ。「自らの分を弁えて文章を書け」ということだ。「吾を知る」ところから自分の文章が生まれる、そういうことだ。

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