2007年12月30日日曜日

2007年12月29日【クロンダイクハイボール】

午前8時に田町駅前のエクセルシオールカフェ。午前11時に通信教育部の学生の論文指導。午後1時まで。ちょっと遅い昼食後、午後4時友人のU氏来訪。しばらく雑談の後、新橋へ。午後8時から午後11時まで新橋・クロンダイクハイボール(Klondikehighball)。今年しばしば立ち寄った店だが、きょうは10月以来のご無沙汰だった。帰宅は0時。

2007年12月28日金曜日

マキャベリ全集

小一時間電車に揺られるのであれば、読書は欠かせない。よく考えてみると、これまでこれほど長い時間揺られて通うのは生まれて初めてである。しかも始発駅なので必ず座れる。いまとは交通事情が大分異なるのだろうが、かつて石橋湛山が鎌倉に住んでいたとき、当時勤めていた日本橋室町の東洋経済新報社への通勤途中、セリグマンやケインズを読んで経済学を勉強したのだとか。
わたしは引越を機に、少し大部の古典を丁寧に読んでいこうと心に決めた。手始めは、マキャベリ全集。筑摩書房から5・6年前に刊行されたものである。当時は60年ぶり戦後初の刊行ということで話題になった。
塩野七生の著作にはかねてより親しんでいたし、今年話題をさらったコミックス、惣領冬実の『チェーザレ』もマキャベリの著作を読み進むのにはよい副読本である。
まずは、マキャベリ全集の第2巻に収載されている『ディスコルシ』から手を付けた。これまで繰り返し読んできた『君主論』の、おそらくこれまでとは違う読後感に期待してのことである。
マキャベリは『ディスコルシ』を執筆中に『君主論』を手がけ、しかもこれを『ディスコルシ』に先駆けて完成させたという。そのためだろう。『君主論』の中では『ディスコルシ』がしばしば引用されている。
『ディスコルシ』。かねてより気になっていた著作である(岩波文庫では『ローマ史論』というタイトルの3巻本としてかつて刊行されていたようだ)。

2007年12月27日【事務手続】

始発出勤。本日で大学の業務は終わり。本年中に連絡を取っておかなければならない人たちへメールを出したり手紙を書いたりして過ごす。
午前10時ごろ研究室を後にし、港区役所へ。小児医療証申請書の提出に必要な書類を取りにいくためである。本来ならば来年でもかまわないはずなのだが、引越早々子供たちが風邪をひきいくつかの医療機関を利用したので医療費がかかった。いろいろ話を聞いていると、越年すると手続が面倒になるとのことで、何とか年内に手続をしておく必要があった。
その後、一旦自宅に戻り荷物の受け取り、鎌倉市役所へ。無事手続終了。バスに乗り実家へ。夕食をとり帰宅。

2007年12月27日【事務手続】

始発出勤。本日で大学の業務は終わり。本年中に連絡を取っておかなければならない人たちへメールを出したり手紙を書いたりして過ごす。
午前10時ごろ研究室を後にし、港区役所へ。小児医療証申請書の提出に必要な書類を取りにいくためである。本来ならば来年でもかまわないはずなのだが、引越早々子供たちが風邪をひきいくつかの医療機関を利用したので医療費がかかった。いろいろ話を聞いていると、越年すると手続が面倒になるとのことで、何とか年内に手続をしておく必要があった。
その後、一旦自宅に戻り荷物の受け取り、鎌倉市役所へ。無事手続終了。バスに乗り実家へ。夕食をとり帰宅。

2007年12月27日木曜日

2007年12月26日【月明列車】

午前3時起床。午前4時24分発「快速ムーンライト長良」への搭乗を試みるため。駅に午前4時10分過ぎには到着したが、「快速ムーンライト長良」は全席指定。あえなく搭乗を断念し、午前4時43分発の京浜東北線で出勤。午前6時から午前10時まで集中して仕事。いまだ熱が収まらない家族の看病のため、鎌倉の実家へ。徐々に快方に向かいつつある。よかった。午後から年賀状のためのデータ整理及び印刷。夕食後、駅のそばにあるスタバで明日の準備など。午後10時就寝。

2007年12月26日水曜日

2007年12月25日【再発】

午前5時起床。台場に住んでいたときに娘が通っていたプリスクール最後の日。遠くから通うことになるが、たままたクリスマス・パーティでもあり、彼女も楽しみにしていたので、多少無理をしても連れて行く。午後2時に終了時刻までホットスポットのあるデックスのタリーズコーヒーで原稿書き。帰宅は結局午後4時。午後7時から会食の予定があったので一旦家を出たが、娘が再び高熱を出したと連絡を受け、引き返す。結局、会食はキャンセル。近くの医院に付き添う。あんなに元気だったのに......きっとはりきっていたんだろう.......確かに、こどもの「大丈夫」は当てにならない。かわいそうなことをした。

2007年12月24日月曜日

2007年12月24日【熱=聖夜】

昨晩は、一時間ごとに子供たちに起こさせる。熱のせいか頻繁に目が覚めるようだ。お昼過ぎから三人ともお昼寝をし始めたので、午後からは仕事の時間が確保できた。 夕方、いまだ三人とも熱が下がらない。午後5時過ぎには夕食を食べ、午後6時には床に着く。午後8時過ぎに起きて連休中にしようと思っていた仕事に手を付ける。テレビはクリスマス一色。わが家はそれどころではない。深夜就寝。

2007年12月23日【伝染】

長男だけでなく、娘も妻も風邪で変調を来す。唯一元気なのは、わたしのみ。久しぶりに、終日自宅で過ごし、久しぶりで食べ物の買い出しと洗い物をする。家族全員早めに就寝。

2007年12月23日日曜日

2007年12月22日【熱】

午前9時過ぎに自宅を出て、京浜東北線で三田へ。午前11時に通信教育部の社会人学生の卒業論文指導。車中で論文にじっくりと目を通す。
研究室で資料整理などしていたら自宅から電話。長男が熱を出したというので、仕事を早めに切り上げて帰宅。妻と長男を緊急外来へ見送り、娘を寝かしつける。

2007年12月22日土曜日

2007年12月21日【受信料】

午前11時半に古い友人と東麻布にあるマキネスティ・カフェで昼食。これに併せて三田に出勤。
今日午後の会議の資料をゆっくり読みたいので、あえて京浜東北線に乗り込み、ついひと月ほど前に公表された『第一次報告書』(公平負担のための受信料体系の現状と課題に関する研究会、2007年11月14日公表)を黄色いダーマトグラフで線を引きながら読んでいく。公共放送の受信料について一部の検討結果を明らかにしたもの。経緯及び問題の状況がかなり明確になった。これからの議論は衛星放送の付加受信料をどう位置づけていくか、それによって受信料の意義や性質にどのような変化をもたらすのか。
ちなみに、わが家は、衛星放送受信施設を有する共同住宅から一戸建てに引っ越したため、BS放送の受信ができなくなり、従来の「衛星契約」から「地上契約」に改めることになった。新たに衛星放送アンテナを設置し「衛星契約」に復帰するかどうかはいまだ思案中である。
午後から総務省で会議。その後、農水省前にある政府刊行物センターに立ち寄り、夕方から「銀座・いわしや」にて忘年会。

2007年12月21日金曜日

2007年12月20日【小学校裏】

今度借りた家は、小学校に隣接した一戸建て。朝八時ごろ、一階にあるわたしの書斎の窓を開けると、小学生たちのにぎやかな登校風景が目に入る。休み時間になると楽しげに遊ぶ子供たちの声が聞こえる。午前の日差しはここには入ってこないけれど、窓の外が少し拓けているので、明るい。
そして、何だか懐かしい気分。
そういえば、わたしの生まれ育った家も小学校のすぐ裏だったっけ。

2007年12月19日水曜日

2007年12月19日【始発】

きょうが、新しい家からの出勤第一日目。せっかくだから始発に乗る。午前3時半に起き、準備をして家を出る。東海道線も京浜東北線も午前4時台から電車が出ている。お台場海浜公園の始発は午前5時41分だったので、大学への出勤時間はそう変わらない、いやそれより早い。あいにくタッチの差で東海道線に乗り遅れたので、京浜東北線の始発電車に乗る。午前4時43分発。職場のある田町には午前5時37分に到着。午前中だけで6時間確保することができる。今度は、午前4時24分発の東海道線に挑戦だ。

大学という病

箱根でのワークショップの帰りに小田原の有隣堂で購入した竹内洋『大学という病---東大紛擾と教授群像』(中公文庫、2007年7月)933円+税を読了。ここ一年ほど、戦前の統制経済について勉強をしているが、そこでも馴染みのある教授陣のもう一つの顔が明らかになっており、面白く読めた。もちろん、「教養とは」「大学とは」といった問題へ教育社会学の見地から切り込んでいく竹内氏の一連の著作は、大学に身を置く人間の一人とって、示唆というよりもはや警句にさえ聞こえてくるようだ。

2007年12月18日【無題】

早朝から起きだし、翌日に予定されている打合せの資料などに目を通す。慣れない通勤。大船を経由して藤沢。小田急に乗り換えて新百合ケ丘、さらに乗り換え唐木田行きに乗り小田急永山。非常勤先の今年最後の講義。帰宅も同じ路線で。途中、藤沢駅近くにある有隣堂に立ち寄る。特に収穫なし。
夕食は実家で食し、その後、わたしだけ自宅に。しばし夜の大船の街をブラブラしてから帰宅。

2007年12月18日火曜日

2007年12月17日【鎌倉市民第一日目】

朝8時半から荷物の搬入。すべての荷物の搬入には、正午過ぎまでかかった。途中、役場に転入届など事務的な手続きを済まし、近所を散策。今日から鎌倉市民。午後3時過ぎまで作業。実家泊。夕食後、実家のリビングで深夜まで講義の準備など。

2007年12月17日月曜日

2007年12月16日【さよならお台場】

きょうは、足掛け7年間過ごした台場での最後の日。いわゆる職住近接・高層住宅。イマドキの都心暮らしを満喫したお台場。そして、この場所で二人の新しい家族が加わった。
昨日は会合があり、帰りは遅くなったが、午前9時にはすっかり家を出る支度が整った。午前中のうちにすべての荷物をまとめ引越業者に任せた後は、家族4人で新しく住むことになる鎌倉へ移動。まずは、新しく住む家に立ち寄り、近所への挨拶回り。そして、実家泊。

2007年11月23日金曜日

ミシュランガイド東京版

 四谷での会合の後、帰宅途中に六本木のABC(青山ブックセンター)に立ち寄る。本日発売のミシュランガイド東京版を買うためだ。すでに午後11時を過ぎている。
 あれだけ報道されていたのだから、品切れであることを半ば覚悟していた。が、運良く本屋のレジ近くに数冊の「赤い表紙」は鎮座していた。手に取ると、待っていたとばかりに店員が一言。「日本語版は売り切れました」と宣う。「知らなかった、ミシュランガイドに日本語版が出ていたのか......」。日本語版が出ているとは知らなかったのだから、何をためらう必要があろう。記念すべき『2008年Tokyo版』を購入。そして、まず最初にしたことは、ページ右下にあるマンガをめくりパラパラやることである。

書肆:今日立ち寄った書店<書原(霞ヶ関店)>

 午前中から夜遅くまで比較的タイトなスケジュールの今日、虎ノ門でのミーティングの後、次の用件まで小一時間ほどの隙間ができたので、虎ノ門交差点のほど近くにある<書原>に立ち寄る。つい先頃まで、この近辺の別のビルにあった店が、再開発の一角を占めるビルに移転したようである。日暮れの早い冬の夕暮れ時に煌煌と光る蛍光灯。周辺のビルが立て替えで暗いためか、ひときわ目立っている。目が痛い。あの明るさは深夜のコンビニを見るようだ。この明るさだけはロードサイドにあるツタヤや文教堂の風情である。
 歩道橋を渡り、店に入る。あの「詰め込んだ」感じは新橋店とかわらない。<書原>らしさである。書店は同系列の店でも立地で表情を変えるが、このあたりは官公庁の多いためか、実務関連の法律関係書籍がとりわけ充実している。とはいいながら、人文関連の専門性も<書原>らしく見逃せない。それほど大きな店舗ではないのだが、それぞれの領域において独特の専門性の深みを感じさせてくれる面白い書店だ。今日、ここでは一冊も買わなかった。政府刊行物センターにありそうな実務関連の本のタイトルを手帖にメモした。あとでまとめて注文するために。

2007年10月20日土曜日

「失言」の構造

 昨今における「語られた言葉」に関する興味深い分析は、現代の「政治と言葉」をめぐる状況について、それが単に政治の質の低下や、個人の資質以前の問題へとわたしたちを導く一つの契機となった。作家の高村薫も、繰り返される失言を前に、言葉を扱うことを職業とする一人の人間の直感として、このことに気づいているようである(東京新聞2007年7月・社会時評)。
 彼女は言う。もとより人間の発する言葉には本心の表明もあれば、本心を偽る嘘もある。受け手は、言葉となって現れたその内容の真偽ゆえに、その言葉に説得力を見いだすのではなく、もっぱら直感的な印象を重視する態度、これが昨今の一般的傾向である......。こうなると必然、政治の言葉に意味は失われ、もっぱら国民の感情をいかに刺激するか、ここに関心が集中する。そして、論理や中身ではなく、好印象と親しみやすさこそがその目的になる......、と。
 近年における政治的発言の顕著な変化を「レポート・トーク」から「ラポート・トーク」への動きと指摘する見解がある(東照二『言語学者が政治家を丸裸にする』文藝春秋、2007年)。「レポート・トーク」というのは、情報の提供を中心に据え、その目的は説得にあるとされる(情報提供型)。従来の政治的発言は、基本的にこの流れに沿うものであった。しかし、近年では、「レポート・トーク」よりも「ラポート・トーク」が重視されるようになったといわれている。これは、聴衆を刺激することで共感を呼び起こすタイプの話し方で(共感惹起型)、情報提供型(レポート・トーク型)の演説にありがちな高所から見下すようなところがなく、同じ目線で語られるのが特徴だ。話しの中に極めて私的なエピソードをとり入れてみたり、地方を地盤とする政治家は話しに方言を織り交ぜたりすることで、効果的な「ラポート・トーク」となり、聴衆からの共感を手に入れる。
 確かに「ラポート・トーク」は今風である。いわゆる「ワン・フレーズ」もこの延長線上にあると考えられる。このような言葉をめぐる環境の変化とその先にある「ウケ」重視の姿勢が「習い性」(高村薫)となった政治家は、悲しいことに「失言」を連発する。
 では、政治的には一定の力を発揮した「ワン・フレーズ」と「失言」の境目は一体どこにあるのだろうか?よく考えると、一定の発言を「失言」と決めつける論理は案外はっきりしていない。結局は、漠とした社会通念を頼りにせよということであろうか。発言の内容が、本心の表明であれ、本心を偽る嘘であれ、その場の空気を読んで発言せよということだろうか。最近、「KY(空気が読めない)」という奇妙な略語が巷間を流布したが、この「空気」こそ過去に多くの過ちをおかした原因ではなかったか。世間が「失言」と名指ししたからといって、わたしはこれに乗じて政治家の不見識を批判するつもりはない。むしろ、公共的決定に携わる政治家の発言は、そのときの「空気」に左右されるようであってはいけないのだ。
 ただ気になるのは、最近の失言は、確信犯的な信念の発露でもなく、熟慮の末の発言でもないということである。自らの発言に責任をもつのであれば、反論こそすれ、謝るべきではないはずだ。すぐに頭を下げるというのは、自らの発言に信念も熟慮も持ち合わせていないということの証である。
 信念と熟慮に導かれた言葉は、多くの場合失言にはならない。それらは、インパクトや「ウケ」とは本来無縁のものだから。むしろ、それこそが、かつて山本七平が指摘した「水を差す」言葉になり得るものであり、無責任に醸成された「空気」を「通常」に立ち戻らせる言葉になるはずだ(山本七平『空気の研究』文藝春秋、1983年)。

2007年9月6日木曜日

失言は資質だけの問題か---「政治と言葉」をめぐって

 ここのところ「政治と言葉」をめぐり興味深い分析を行う著作の刊行が相次いでいる。いずれも国民の圧倒的支持を五年の長きにわたり集め続けた前政権の、しばしば「ワン・フレーズ・ポリティクス」と揶揄されながらも存分に発揮することとなった「言葉の力」というものに、研究者たちの関心のアンテナが敏感に反応した結果であろう。
 確かに、ある政治家の生い立ちやそこで育まれた思想、またはその政治的発露としての政策をわれわれはしばしば目にするし、これらを記した文献も少なくない。だが、こうした「書かれた言葉」に比べると、議会や街頭において日々行われ、しばしばわれわれの情緒をかき立てずに置かない、そして時として些末な議論へと誘い、場合によっては誤った方向へ導くことすらある「語られた言葉」の分析は、プラトンやアリストテレスの昔から政治家の生命とされてきたものであるにも関わらず、昨今、性懲りもなく繰り返される「失言」をめぐるジャーナリスティックな取り扱い(たとえば、保坂正康『戦後政治家暴言録』(中公新書ラクレ・2005年)がまとまっている。現政権についてのものでは、東京新聞2007年7月21日朝刊特報部の記事が詳しい。)を除けば、わが国でついぞ目にすることはなかったように思う。
 次回以降、見て行くことにするが、戦後政治に限ってみても、言語ないし言葉をめぐる環境の変化は否定しがたく、このような指摘はジャーナリズムによる直感的ないし情緒的な反応にとどまらず、ここに来て政治学や社会言語学の視点から、ある程度実証性を伴ったかたちで整理・検討され、明らかにされるようになった。
 ここでいう言語環境、言い換えれば「言葉をめぐる環境」とは、この社会と時代を動かしている人々の一群の言語感覚に他ならない。無論、言葉は発するものである以上、受け手の存在があって成立するものである。したがって、国民の支持をわしづかみする巧みな言説も、その支持を一夜のうちに消滅させる失言も、単純に政治家本人の資質のみに還元されるものではないはずだ(日々マスコミの報道にあるように資質に疑問符が付く者が多いのも否めない事実なのかもしれないが......)。むしろ、受け手の意識や資質も問われなければならず、いわば構造的な問題として把握する必要がある。
 確かに、いわゆる「失言」の類を政治家の資質の問題として済ますのは簡単である。しかし、それでは「政治と言葉」の問題の一端の、しかもその表面だけしか捉えていないことになる。逆に、言葉を巧みに用い、自らの政治的意図を成功裡に導いた者に対する評価も単なる「資質」の問題として片付けられてよいのだろうか。言葉巧みで、プレゼンテーション能力に富み、よいイメージが伴っていても、政治的な成功が保証される訳ではない。「資質」とは異なるもう一つの次元にも目を向ける必要がある。
 わたしを含め、日常の些事にあくせくしている人間は、問題の一端をとらえてわかった気になってしまう。この件についても、よもや自ら属する社会や時代の言語環境にまで思いを馳せることなど夢にも思わないのが普通であろう。
 実施に移された政策の当否についてはいまだ議論が分かれるところであるが、われわれの感覚や意識をも巻き込む看過されがちな言語環境の変化に今さらながら気づかさせてくれたこの一点だけを見ても、前政権の功績は大であるといえる。というのも、今ある言語環境の的確な把握こそが、わが国の民主制の深化に不可欠であると考えるからである(つづく)。

2007年7月12日木曜日

一字分の空白、無用の隙間

 折々の節目、しばしばわたしのもとに婚礼の招待状と見紛うばかりの大げさな封書が届けられる。おそらく仕事や研究会などで同席し、名刺交換でもしたのだろう。差出人には、見覚えのある法律事務所の名。開けてみると何ということはない。この事務所で新しく業務に従事することになった弁護士の挨拶状であった。二つ折りの厚紙の片方には、事務所の代表者によるこの弁護士の紹介、そしてもう片方には当人の挨拶と抱負が書かれていた。
 こんなご丁寧な挨拶状をもらっておきながら、あれこれいうのも気が引けるのだが、最近、この手の挨拶状を見るといつもあることが気になってしまう。内容のことを言っているのではない。体裁、いやむしろ作法というべきか。わずかはがき一枚程度の短い文面である。しかし、わたしは唯この一点が気になって、一々つまずいているのだ。
 試みに同僚や事務所のスタッフにこの挨拶状を見せ、違和感の有無について尋ねてみると、意外なほどこの点に気づいてもらえない。「この偏屈者っ!」と、こんな声が周りから今にも聞こえそうである。
 わたしのつまずきの原因、それは手紙の文面にしばしば登場する一文字分の空白、無用な隙間。そう、この手紙には句読点—「、(テン)」と「。(マル)」—がないのだ。
 文面を目で追うとき、この空白をわたしは素通りすることができず、その都度何も書かれていないこの隙間に落ち込み、確かに読み取っているはずのこの手紙の文意を、この空白に出くわす度に消去され、何度も行きつ戻りつしながら読まされることになる。もちろん、この手紙に書かれていることと言えば、型通りの挨拶にすぎないわけで、実際上何ら不都合があるわけではないのだが。
 確かに、歴史をひもとくと句読点が用いられるようになったのは明治も後半になってから。日本語にはもともと句読点などなかった。
 つい先日、いわゆる礼儀作法に関する本を手繰ってみた。誰が言い出したのかはよく知らない。見ればいろいろ書いてある。目に留まったのは、改まった手紙は縦書きで書くべきこと、そして、手紙の文章に句読点を打つのは相手に非礼だということ。
 なぜ縦書きでなければならないのかの説明もなければ、逆に横書きの何がいけないのかについても語られずじまい。縦書きとは違って横書きだと相手方に「改まった」感じが伝わらないのは何故か。むしろわたしは、これを問いたい。昔からそうしてきたからか、それが伝統的なかたちだからか。「改まる」すなわち「礼儀の正しさ」は、果たして「古きこと」と同義なのか。また、句読点にしろルビにしろ、相手に読み方を指示するのは相手の無教養を指摘することになるのだろうか。俄には信じがたい理由である。しかし、仮にそうであったとしてもわが国の義務教育の普及や識字率を見れば、このような理由付けが現代において通ずるとは考え難い。今となってみれば、わたしには取って付けたような便宜的な理窟にしか思えないのである。
 殊に慶事の書状には句読点を打つべきではないという。確かに、句点「。」は文章の結びに用いられる。慶事を「結ぶ」すなわち「終わる」というのではいかにも縁起が良ろしくない。しかし、婚礼においては両家が「結ばれる」わけだから、「結ぶ」というのがつねに縁起が悪いというわけでもないであろう。慶弔によって水引の結び方・切り方は違えど、水引はいつもきれいに結ばれているではないか。
 わが国では、モノに何らかの意味や縁起を仮託するということがしばしば行われるが、このことは日本人の詩心にも根ざしており、それ自体決して悪いこととは思わない。しかし、後付けのご都合主義的なこじつけは、伝統の曲解・歪曲としかいいようがない。当然、わたしはこんな説明に説得もされなければ納得もしない。
 確かに、これまでわたしの手元に届いた婚礼の招待状に「縦書き・句読点なし」というのもあったかもしれない。だが、ビジネスに用いる書翰にまでこのような改まった体裁のものが広く用いるようなられるようになったのは極めて最近のことではないだろうか。
 ただ、いくら礼儀作法の本をひもといたところで、わたしのこの嫌悪にも似た違和感を説明することにはならない。では、その原因は一体何に由来するのだろうか。
 先日、ある人への礼状を書いていてふと気づくことがあった。便箋に万年筆を走らせていると、わたしは意外なほど句読点にこだわらないで書いている。書き上げてみると「、」と「。」は、ほとんど打たれていない。だからといって、字それ自体の巧拙は別として、内容を読み通すのにこれといった困難さも感じられない。
 試しにワープロで便箋に書かれた手紙の内容を忠実に—「、」と「。」を端折って—打ち込んでみた。一つ一つの字それ自体の読みやすさにも関わらず、出来上がった文面は息つく暇のない文字の羅列に疲れ、全く読めたものではない。コピーライター・糸井重里氏が一〇年余り毎日更新しつづけているインターネット・サイト「ほぼ日刊イトイ新聞」(http://www.1101.com/index.html)に掲載されている彼のエッセイ(のようなもの)「今日のダーリン」は句読点を用いた文章だが、「、」と「。」以外にも「行かえ」(コンピュータ的には「改行」)を多用している。彼は横書きでメッセージを伝えるための見やすさをあれこれ試行錯誤した結果、このようなかたちが定着したといい、それはメールで使っている文章なのだという(糸井重里『インターネット的』PHP新書)。今でもたまにEメールの文章をまるで原稿用紙に書くかのようにびっしりと書き込む人がいるが、多少慣れた人は文章の途中でしばしば「行かえ」を入れ、いわゆる段落(あるいはパラグラフ)のところでは一行あけたりする。書き上げた文面を見直す際、体裁に由来する読み難さを解消するために、各々が工夫をした結果なのだろう。
 日本語はひらがなにしろカタカナにしろ、また漢字にしろ、マス目にぴったりと当てはまるように活字化され、日本人は幼い頃からこのような枠にはめられた文字を「正しい」とか「美しい」とか思ってきたフシがある。この「正しさ」・「美しさ」は義務教育と印刷技術の普及によって規格化され、一国を覆うようになってしまった。
 このような一字一字マス目の中に文字を置いていくやり方は、「、」や「。」によって一息つかせてもらえなければ読めたものではなく、仮に句読点がしかるべき位置に打たれていたとしても、適当に「行かえ」をしなければ視覚的に相当に辛い。コンピュータの画面であればなおさらであろう。
 それに比べ、手書きで便箋にペンを滑らせるときは相当自由である。毛筆で書かれた古い手紙(消息文)を見ても一文字一文字の大きさはマチマチだし、そもそも原稿用紙のマスを埋めるように書く必要など前提にない。文節など適当な切れ目で行をかえればよいからである。だからといって、意味を取り違えることも読み難くなることもない。
 おそらく、「、」と「。」はマス目を埋める発想と軌を一にしている。だから、マス目などそもそも存在しない便箋に「、」と「。」など必要ない。
 では「、」と「。」がないにもかかわらず、われわれの先人たちはどうやって文の中の区切りを見出してきたのだろうか。今となっては、時候の挨拶にその跡を残すにすぎなくなった候文(そうろうぶん)にそのヒントがある。かつて、書翰文といえば候文であった。先頃亡くなった山本夏彦氏に言わせると、「候」というのは句点(「。」)と同義なのだ(山本夏彦『完本・文語文』文藝春秋)。したがって、時候の挨拶に見られる「......の候」の後に「、」や特に「。」はあり得ない。このように、近代以前の人々は、文の切れ目を文脈や意味に加え、「行かえ」や特定の文字(「候」)によって、そしてきっと(これは推測ではあるが)筆線に見る墨色の潤枯によっても見出してきたのではないか。
 多分、原稿用紙の誕生は印刷技術と結びついている。その証拠に、誰もが見たことがある四百字詰めの原稿用紙の始まりは頼山陽が『日本外史』の執筆のために作らせた赤線罫(けい)の用紙であるいわれている。京都にある万福寺宝蔵院に所蔵されている一切経(大蔵経)の版木も四百字詰め(なお、もう一つの原稿用紙のスタンダードといわれる「ペラ」(二百字詰め)は、これに先立つ江戸中期の考証学者・藤井貞幹の『好古日録』の稿本に既に見ることができる)。
 一般に、マス目の存在は、文字数の的確な把握に役立ち、植字工が文字と文字の連綿を読み間違うことを防ぐ。また、マス目は活字を置く際にその配列やレイアウトを指示し、その出来上がりをある程度イメージすることにも有効である。
 「、」と「。」は、マス目に文字を置くことと必然的に結びつき、マス目を伴う原稿用紙は活字印刷に不可欠な道具であった。
 冒頭のあいさつ状に対する違和感の理由(わけ)が少しずつ解けてきた。元来、手紙は手書きであった。句読点(「、」と「。」)など使わなくてもよかった。だが、印刷技術の登場により活字が使われ始めると、やがて句読点は必須のものとなっていく。現代、マス目に収まることを義務付けられた印刷活字の中に手書きで書かれていた時代の流儀が持ち込まれているこの事態。それがわたしの目には「無意味な隙間」と映り、いい知れぬ違和感の源泉となっていたのではないか。では、わたしがこのあいさつ状に違和感だけではなく、嫌悪さえ感じたのは一体何故か。おそらく、わたしは、この手紙の中に伝統や古きものへの主体的な問いかけを怠り、ただそれを権威として盲従するだけの精神、この表層的な伝統墨守の姿勢と復古主義的な傾向を垣間見たからではないかと思っている。極めて私的な感想・情緒の域を越えるものではないが、世を覆うこの無意識にささやかながら抵抗を試みたいと思い、おそらく誰もが歯牙にもかけないこの問題をムキになって論じ、最近の半ば常識化したこの流儀に一言いっておきたかっただけのことである。

2007年4月20日金曜日

「橙」の誘惑---ブロック・ロディア

ここ数年、早朝出勤のライフパターンがすっかり定着した。今日も午前三時には背広に着替え、すでに出かける準備は整っていた。起床してから始発電車の時間までは数時間ほどだが、早朝の数時間は侮れない。一仕事できる十分な長さがある。いつも夜が明ける前から、自宅のリビングか、近くのファミリーレストランに陣取り、原稿を書いたり、資料の整理をして過ごす。
講義のある日は、とりわけ早くに目が覚める。今日もそうだ。その所為か、午後からの講義の準備は午前九時過ぎにはすでに終わっていた。いつも思うのだが、講義の前に集中を要する仕事は何となく入れたくない。単に気分の問題かもしれないが、後に別の仕事が控えていると、たとい時間が十分あっても残り時間が気になってしまう。
いつもなら、研究室の棚から散歩の友を見つけ出し、近くのお気に入りの喫茶店で読書に耽るところだが、今日に限って別のことが頭に浮かんだ。先日、立ち寄った本屋でふと手に取った雑誌—名は忘れてしまった—にフランスの老舗文具メーカー・ロディア(Rhodia)の新作展示会の情報が出ていた。メモをとったわけではなかったが、日時と場所は不思議と記憶していた。
「確か、今日までだったはず」と思い立ち、とるものとりあえず会場の青山・スパイラルビルに向かった。案の定というか、ちゃんと確かめてから行くべきであった。現地に到着したのは、午前一〇時。早すぎた。会場のスパイラルビルは午前十一時からオープン。結局、近くのブレンズカフェで蓮實重彦の近著『「赤」の誘惑—フィクション論序説』を読みながらしばし開場を待つことに。半時ほど読書に集中し、ほぼ向かいにあるビルの入口付近。RHODIA ORANGE一色に染まったブースに足を踏み入れると、今まで見たことが無いロディアに、文具好きとくにノート好きを自任するわたしは「橙」に誘われ導かれたことを素直に喜んだ。
定番ラインの充実に加え、「メタリック」や「クラシック」等のこれまでオレンジ一色だったラインに新たなテイストを持ち込んだものや、「ブティック」というエレガントなイメージの新機軸の提案もなされていた。
最近では、講義中、学生が鮮やかなオレンジ色のノートやメモを手にしている姿を見かけるようにもなった。リーズナブルな値段に加え、近年の文具ブームも後押ししているのかもしれない。企業総務部御用達のアスクルやカウネットが隆盛する一方で、自分で使うものだけは少しこだわってみても、というユーザーが確実に増えている。
わたしの場合、ロディアメモ(BLOC RHODIA)は、そのコンパクトさと印象的な紫色の方眼、そして小気味よい「切れ味」(!)、これにすっかり魅了され、しばしばまとめ買いをする。デスクの上に置きメモ帳として、鞄のポケットに入れTO DOリストとして重宝だ。用件を終え、ミシン目のところで切り離す瞬間の快さは、一つの仕事から解放された快さと微妙にシンクロする。
大きさは手のひらにのせてあれこれ書くことができるNo 11がベストだと思う。数ある種類の中で、これしか使ったことがないのだが......。将来これらの新シリーズにもきっと触手が伸びることになるだろう。
フランスの老舗ブランドの新しい挑戦。日本にどう浸透するするのかしばらく注目していくことにしたい。

2007年4月19日木曜日

名文"家"の条件

セメスター制がわたしの勤務する大学にも定着したらしく、半期ごと(春と秋)、ほんの幾人の学生が、わたしの下で論文を書き上げ、そして卒業していく。締切を控えた十一月(春卒業)と六月(秋卒業)は、彼らにとって気の毒な話かもしれないが、一ヶ月余の期間、毎週土曜日を返上し、一対一で議論しながら論文を仕上げていく。学部に所属していないわたしの下で論文を執筆するのは、すべてが通信教育部の学生たちであり、その多くは平日仕事を持ったビジネスマンや公務員である。彼らにとってじっくり論文について議論が出来るのは土曜日くらいなものである。日曜日は前日の議論を踏まえ、その手直しに充てられるのだから。
この時期、わたしは「壊れたレコード」のようになる(この比喩は死語となりつつあるかもしれない。今流に言うと「傷ついたCD」か)。
当然、各々の論文はテーマも違えば内容も随分と異なる。したがって、内容について議論しようとするかぎり、決して「壊れたレコード」のようにはならないはずだ。だが、実際にそうなってしまうのは、各人に対する論文指導が文章指導を伴うものだからである。
この半期に一度繰り返される論文指導ならぬ文章指導は、奇しくも自らの文章に対する何らかの評価基準を開陳する場になり、かつ、そのことを自身で逐次確認する場にもなっている。
数多くのカタログの中でも指導のかなり早い段階でしばしば登場するレパートリーが「名文家の条件」である。
名文家の文章は、わたしが見るところ、三つの要素が備わっている。一つは、一文(句点までの距離)が長いということ(長=文章)、いま一つは、主語がしばしば欠如するということ(欠=主語)、そして最後に接続詞が少ないということ(少=接続詞)である。
いかがだろうか。疑問符がチカチカ点っている人もいるかもしれない。というのも、この三つ、いずれもが常識的には名文の要素とされている明晰性や透明性とは正反対のことを述べているからである(ただし、この明晰性も透明性もその指し示す意味合いの幅は一定ではないようだ。前者については蓮實重彦の『反=日本語論』(ちくま文庫)所収「明晰性の神話」を、後者については井上ひさしの『自家製・文章読本』(新潮文庫)所収「透明文章の怪」をご覧あれ。)。この話をすると多くの人が怪訝な顔をする。この人は何を言い出すのかと言わんばかりだ。望むところである。
きっと、人は名文を書こうとしている。あるいは、名文が書きたい。だから、そんなコツがあれば知りたいし身につけたい。市中に出回る文章本はそれを揶揄し嘲笑する本(齋藤美奈子『文章読本さん江』筑摩書房!)でさえ、そのことを物語っている。でも、名文家ではないわたしに名文を教えることができようか。仮に名文家であったとしても、ここでそれを伝えるつもりは毛頭ない。
先に述べた三つの要素、これらは「名文の条件」ではなく「名文家の条件」なのである。つまり、日本語を文章の中で巧に操ることができる人以外は、文章に透明性を失わせる「長=文章」は止めておいた方が身のためだ。主語がきちんと明示され述語と有意に結びついていた方が読みやすいに決まっている。まして、筋道や論理関係を明らかにする適切な接続詞の配置は不可欠だ。この要素を破りながらもなお常人が評価可能な文章を書けるのが名人=名文家。そう、わたしが言いたいのは一つだけ。「自らの分を弁えて文章を書け」ということだ。「吾を知る」ところから自分の文章が生まれる、そういうことだ。

2007年4月13日金曜日

硬骨漢の「みやげ」---木村屋總本店のあんバター

昨日、友人のO氏が今回の人事異動で勤務地が変わり、転勤先である京都に無事着任したことの知らせが届いた。彼にはここ一年余り会っていないが、これまで銀座が彼の勤務地であったこともあり、同じく近くに勤めるI氏とともに、しばしば顔を合わせていた。さして重要な話があるわけではない。仕事や家族のことなどあれこれ話すだけである。ただ、二人とは年齢や家族構成も近く話が合った。
多忙な三人がそろうのは、いつも午後十時をまわってから。彼らの仕事が終わる時間だ。終電までのほんのわずか、気のおけない友との気楽で快適な時間をすごしていた。
ある日、I氏とともに先に酒杯を傾けているときである。いつものように午後十時をすぎたころ、O氏は息を切らして店に入ってきた。" かけつけの一杯"でビールを呷ると、何やらゴソゴソと手にしていた袋をのぞき、「たいしたものではないのだが......」と言って、木村屋總本店の文字が入ったその袋から丸々としたパンを一つ取り出した。わたしが見るところ、O氏は食通振ったりグルメを気取るタイプの人間では全くない。むしろ、その対局にあるともいえる硬骨漢である。その彼が、である。パンなぞを---しかも、よく見ると餡が入っているパンをである---「みやげ」と称して持ってきたのだから、一同(といっても二人)彼の行動を訝しがっても不思議ではあるまい。
そんな二人を察してか、O氏はたたみかけるようにその「みやげ」のあんぱんの説明を始めた。聞けば、木村屋總本店とは仕事上の付き合いがあるらしく、点在する工場がどこにあり何を作っているだの、今日の「みやげ」は銀座本店の上層階にある工場で作っているだの、なかなか詳しい。
件のあんぱんは木村屋定番のそれとは違い、少しだけ大ぶりだ。「あんバター」というらしい。つぶあんとホイップされたバターが柔らかめのフランスパンの生地の中に入っている、新しいあんぱんのかたち。粒あんの歯ごたえが無ければもの足りないし、単なるバターでは少々重い。多少引っ張ってもちぎれないパン生地もいい。パン生地はもう少し塩が効いているといいかもしれない。
O氏によれば、彼の細君もお気に入りだと言う。だからであろう。食べ物にちょっとうるさいI氏やわたしにも、自信をもって薦めたのである。
後日、銀座に用があり、夕方六時過ぎごろに銀座・木村屋總本店の前を通りがかった。ふと、あの「みやげ」のことが頭に浮かんだ。早速買い求めようと店内に入ってみたものの、すでに売り切れ。店員によると、早い時間でなくなることもしばしばだという。もっと早くに来ることを勧められた。多忙なO氏もちょっとした暇(いとま)を見つけて木村屋に走ったのであろう。ガタイのいい彼が混み合った店内でパンを物色し、小振りとはいえ一家に三つずつ計九つものあんぱんを抱える姿は何とも微笑ましいではないか。

2007年4月11日水曜日

「時候の挨拶」を誘う便箋---鳩居堂・季節の便箋(*)

そういえば、ここしばらく手紙というものを書いていなかった。依頼やお願いごとは専らeメール。礼状は妻まかせ。自らペン/筆を執っても簡単な一筆箋で済ますこともしばしばであった。
ところが、年明け早々、ひょんな理由で何通もの手紙を書かねばならなくなった。かつてはよく書いていた。それが、学生時代からの一つの癖のようにもなっていた。郷里から離れてしばらくは両親に宛て、学生のころは世話になっている師に宛て、婚約していたときは将来の妻に宛て......。
手慣れたもので、長いものでもそれほど時間はかからなかった。便箋に封筒、切手に万年筆は、常に持ち歩いていた。別にマメな性格ではない。単に文字を書くことが好きで、ペンや筆を思いつくまま滑らせていた。
便箋などをあれこれ気にするようになったのは、大学の頃であったろうか。ちょうど書を習っていたころ、師へのお礼や連絡は原則手紙であった。電話で連絡をする際にも、電話をかける日時をあらかじめ手紙で伝えるほどの丁寧さであった。これが伝統であった。毎週、少なくとも5-6通は書き送っていたと思う。
手紙の体裁にも人一倍気を遣った。相手は書の先生である。初めて先生に宛て書いた手紙は、5時間以上もかかってしまった。
手紙にまつわるいろいろな作法やルールもそのとき覚えた。その手の本もずいぶんと読んだ。やがて、手紙を書き送るのが頻繁になると、これらの作法やルールの中に、あるいはそれらをこえて、一工夫や楽しみを見つけるようになる。
例えば「時候の挨拶」。受け手は当然のことながら、送り手にとっても書くことで季節を感じるこの上ない瞬間である。だが、案外大事にされていない。書き慣れていない人の「時候の挨拶」は実に単調でつまらない。おそらく「親切すぎる」実用本と「優秀すぎる」ワープロソフトの賜物だ。
確かに、大方の人にとり手紙を書くときの最初の躓きは「時候の挨拶」である(その証拠にわたしの妻は常にここで躓いている)。しかし、手紙を数書くようになると、おのずと頭に浮かんでくる。ちゃんと自然や季節の移り変わりに目が向いているからだ。でも、最初からこれを求められるととても辛い。実際、わたしもそんな感性なんてつゆも持ち合わせていなかった。
そんなとき、この便箋に出会い、以来変わらず使い続けている。シルクスクリーンで描かれた美しい鳩居堂の便箋。身近な草花が一枚ごと代わる代わる配され、ちょっと早めに店頭に並ぶ。
——この絵柄を少しの間だけ記憶に止めておくことにしよう。そして、辺りにこれらの花が咲いたとき、仕舞っておいたその便箋を取り出そう。
さすがに、この便箋の絵柄のために「時候の挨拶」を略して構わないということにはならないだろう。けれど、これらの草花をどこで見つけただの、どんな具合に咲いていただのを書いていくと、自ずと「時候の挨拶」になっているから不思議である。かつてのわたしも随分と助けられた。

件の手紙のために、年明け早々、わたしは鳩居堂へ向かった。あの便箋も変わらず店先に並んでいた。「降りしきる」と銘打たれたその便箋は、梅の枝に雪があしらわれていた。稀に見る暖冬の東京。今年は、この便箋を使わずに春を迎えることになるのだろうか。
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(*)慶應義塾大学書道會機関誌『硯洗』63号(2007年3月)より転載

2007年4月10日火曜日

ポルト・パロール

先日、詩人の蜂飼 耳(はちかい みみ)が、東京新聞の夕刊(2007年4月4日)で姿を消した詩集専門店のことに触れていた。別にこの書店について詳しく書かれていたわけではない。書き手によって放たれた詩集が「こころぼそくさまよい」ながらも、なぜ詩集というものがいまだ存在しつづけているのか、そしてそもそも詩集とは何なのかを問いかける文章の中で、ほんの少しばかり触れているにすぎない(なお、ここで彼女はその理由を「(ある作家がいうように)詩集を一冊いつか出したい、という思いがほそぼそとでも世の中に漂っているからではないだろうか」と、とりあえずの推測的解答を寄せている)。
さて、彼女が書き記した「都内にあった詩集専門店」。これは、おそらく渋谷西武の地下にあったポルト・パロールのことだろう。かつて、足繁く通った書店である。ここは、西武系の書店・リブロの一角にあったが、仕切られた中に足を踏み入れると明らかに異なった空間を感じることができた。扉の背が低かったわけではない。しかし、何となく身を屈めて入り口をくぐると、思考と想像の世界に沈み込んでいく感じになった(わたしの記憶が確かであれば、池袋西武にもポエム・パロールという姉妹店が存在していたと思う)。
学生時代、法学部に在籍しておりながら(否、だからこそ)、言葉というものの力につよい関心と憧れを抱き、いわゆる文学系の講義にしばしば耳を傾けた。大佛次郎研究の福島行一による「日本語表現論」、今は亡き江藤淳の「日本文化論」、中でも現代詩や批評理論、言語哲学や思想の世界にわたしを誘ってくれた辻井喬の「詩学」。わたしが、大学に籍を置いていたとき、偶然にもわが校の久保田万太郎記念講座の講師が辻井氏であった。彼が当時巨大な流通グループを率いていたことは当然に知っていた。しかしその事実とは裏腹に彼の詩作品にあらわれている資本主義に対するどこかためらいを伴ったまなざしは、常に気になるもう一つの貌であった。
資本主義の成熟の象徴ともいうべき消費社会。その極ともいえる百貨店の中に詩集の専門店をおくという発想自体、矛盾とも皮肉(イロニー)とも。まさに、辻井氏が講義の中でしばしば引用した西脇順三郎の『詩学』にいうポエジーにほかならない。
渋谷は、今でもポルト・パロールの思い出とともに猥雑な中に人間存在の醜悪さや一筋縄では行かない世の中を直視せよというメッセージをわたしに送り続けている街だと思う。

2007年4月9日月曜日

猫のように

久しぶりの休日。妻が友人と、ある著名人の講演会に出かけるというので、夕食時銀座あたりで落ち合うことにし、わたしと娘は神宮外苑にある児童遊園に出かけることにした。午後4時近くまで手一杯遊んだ後、地下鉄で銀座へ向かった。待ち合わせの時間まではしばらくあったので、書店で時間をつぶすことにした。気になる本もあることだし......。
銀座で一カ所だけ本屋に立ち寄るなら、わたしの場合、文句なく教文館を選ぶ。娘と一緒ならばなおさらだ。
教文館ビルの6Fには絵本の専門店・ナルニア国がある。ワン・フロア全体が児童書なので、かなりの絵本が揃っており、このごろ絵本が面白くなってきた彼女にとって都合のいい場所である。
絵本を読むようになったのは、大学に入ってから。幼いころの思い出はほとんどない。子どももいないのに、絵本に関心を持ち、しばしば児童書の専門店を出入りしていた。お気に入りは、青山の「クレヨンハウス」。だが、半ば敬意に近い感情をもって出入りしていたのは「たまプラーザ童話屋」。たまたま指導教授のお宅がたまプラーザにあったので、そこに伺う際にはかならず立ち寄った。
確か「たまプラーザ東急SC」3階だったと思う。かなり奥まったところにあったと記憶している。小さな店舗だったのに、そのかなりの部分が「こどもべや」に充てられ、木の椅子がいくつも置かれていた。そこにある本にはシールが張ってあり、自由に読んでよかった。ときどき「おはなしの時間」と称し、ここの従業員が読み聞かせをしていた。いまから考えても、とにかくすごい本屋だった。
いつの頃だろう。たまたま立ち寄ったら、猫のようにすでにいなくなっていた。
「童話屋」が姿を消し、しばらくの間は絵本漁りをしなくなった。身辺が急に慌ただしくなったからかもしれない。そんなおり、ふと気づくと教文館にナルニア国できていた。98年頃の話だ。
きっと両者は全く関係ないのだろうが、私の中では、姿を消すのも現すのも気まぐれな猫のような本屋たちだ。

2007年4月7日土曜日

髪切りと硝子の氷柱

午後、図書館でしばらく資料の探索をした後、夜に予定されている夕食会まで少しばかり時間が空いたので、久しぶりに髪を切りにいくことにした。いつも切ってくれる方が数年前に日比谷から日本橋に移られたのを機に、数ヶ月に一度、日本橋三越の美容室に足を運ぶようになった。もちろん、わざわざそこまで行くにはそれ相応の理由がある。
髪を切るに当たり、いろいろと注文をつけるのは昔から得意ではない。座ったきり、何も言わずに粛々と切ってくれる人がいい。もちろん、会話は必須だが、沈黙の時間も気まずさを感じさせない、うまい距離感をとれる人がいい。だから、いつも同じ人にお願いしている。
帰りは、必ず、美容室近くのタロー書房に立ち寄る。それほど大きくはない3階建てのお店であるが、要点を押さえた品揃えで、特に文庫本のプレゼンテーションが出色である。そそり立つ透明な氷柱の什器に文庫本が据えられている。他では見られないプレゼンテーションだ。本の表紙が目に飛び込んでくるうまい配置。そして、それとなく飾られているいくつかの絵画。「精神の散歩道」と称するこの店の面目躍如といったところか。

2007年4月5日木曜日

『原稿用紙の知識と使い方』

事情があって、お昼過ぎから日吉キャンパスにいた。行き帰りの電車で読もうと、大学図書館で借りたばかりの本・松尾靖秋著『原稿用紙の知識と使い方』(南雲堂、1981年)を片手に出かける。実は、以前より原稿用紙なるものについて調べていた。あのマス目のかたち(一般的なルビ用の余白があるもの以外にいわゆる障子マスなど)に「二〇掛ける二〇」の四〇〇字詰め。一体、いつからあのかたちになったのであろうか。そんな疑問を、先日、編集者のW女史に告げたところ、この本を薦められた(彼女は読んでいないらしいが)。
それほど厚手の本ではないため、本当に行き帰りの電車で読み終わってしまった。いくつかのことについては、何となく疑問が氷解したものの、いまだこの本は推測が多く、また、事実関係も曖昧で、大部分の事実がわたしにとっては既知であった。一般向けの読み物としては面白く読めると思うが、わたしの疑問や要求に余すところなく答えてくれたとはいい難かった。
この問題、まだまだ深みにはまりそうである。

『築地(TSUKIJI)』

昨日の夕方、東京都心は空が急に暗くなり、雷とともに霙交じりの雨となった。今朝の新聞によると4月の雪は19年ぶりだと言う。帰宅のタイミングを逃したと思ったが、本日中に送らねばならぬ郵便物があったので、激しい雨にもかかわらず帰途についた。
郵便局で所要を済ませた後、久しぶりに流水書房・田町店に立ち寄る。『築地』(テオドル・ベスター著、和波 雅子=福岡 伸一訳(木楽舎、2007年3月)税込3,990円)が平積みされていた。いくつかの新聞・雑誌の書評に取り上げられていた本だ。市場を「しじょう」と読むにせよ「いちば」と読むにせよ、これに関心をもつ者の触手を動かさずには置かぬ魅惑的な地名そしてタイトルである。
現下の都知事選の争点にもなっており、奇妙な時事性を兼ね備えることにもなったようだ。現都知事が再選されれば、あの風情が消滅するとの強い危惧を持ち、最近、俄に築地に通うようになった(昼食が主であるが)。たまたま、手に取った本のページをめくったら、かつて築地市場が大田市場への移転が企図され、挫折した経緯が述べられていた。
当然のことながら、この本をその場で手に取り購入することを考えた。しかし、余裕のない鞄と激しい雨にそれを躊躇した。比較的大部なこの本を持ち歩くには、書店の小さな袋では不十分。逡巡した挙句、手元にあるノートにこの本のことを記し、購入は次の機会を待つことに。

2007年4月4日水曜日