2012年12月17日月曜日

【荒川洋治『詩とことば』(岩波現代文庫、2012年)】


 今年6月の刊行と同時に買ったきり、読まずに積んでおいた本を、この週末「読み返す」ことができた。新刊なのに「読み返す」と言うのはいかにも変な感じだが、それは、この本が今から8年前にすでに発売され、そのとき読んでいた本だから。もちろん、作者も書名も同じ。荒川洋治『詩とことば』。
 かつて「ことばのために」と題されたシリーズ(叢書)の一冊として書き下ろされたもので、荒川洋治をはじめ、加藤典洋や関川夏央、高橋源一郎、平田オリザが、それぞれの立場から、詩のみならず、演劇、物語、小説、批評と「ことば」について一冊ずつ、おのおの自由に書き尽くすという企画。
 当時、このシリーズのいくつかを読んでみたが、一番楽しんで読めたのが、荒川洋治のこの一冊。だから、また「同じ本」を買ってしまったのである。たぶん、この人の作品の読み方、接し方が気に入っているのだと思う。「思いつき」のようで、けっして体系的とはいえない記述。だが、流れの中で、縦横無尽に、作品を論じるのが巧い。見事なアンソロジーではあるが、それにとどまらない。あたかも、ご本人が作品を手に取りながら話している、そのそばで聞いているような気分になる。
 荒川洋治は、作品を「掘り出す」名人でもある。今となってはすっかり忘れられ、読まれなくなってしまった人に脚光を浴びせる。そのたびに、読書欲を駆り立てられる。旧刊から8年の間にも、彼の思考は進んでいた。だから、新刊のこの本は実は「同じ本」ではなかった。いくつかの箇所で、書き下ろしのエッセーが紛れ込む。その中には、いつものように彼によって掘り出された人がある、作品がある。今次の大震災を契機とした「ことば」の状況への危惧も示されている。
 しかし、紛れ込んだどの部分も、まるで前からあったかのような顔をしている。これが荒川洋治の巧さである。

2012年11月19日月曜日

【石原吉郎『望郷と海』(みすず書房、2012年)】


 最近、立ち寄る書店の新刊の棚に見覚えのあるタイトルを見つけ、気にはなっていた。
 そして、それがどうしても気がかりで、結局、昨日買ってしまったのだが、その本が石原吉郎のエッセイ集『望郷と海』である。1972年に刊行されて以来、79年に同氏の全集に収められ、その後、同名のタイトルで90年にちくま文庫、97年にちくま学芸文庫と繰り返し刊行される。そして、今回、みすず書房からこの6月に再び出版となったようだ。おそらく、石原吉郎の名を知ったのが大学生の時分であったから、90年代初頭に「ちくま」の一冊として目にしていたのだろう。しかし、その当時、この『望郷と海』を手にしなかったのは、すでに『石原吉郎詩集(現代詩文庫26)』(思潮社、1969年)や『続・石原吉郎詩集(現代詩文庫120)』(思潮社、1994年)を読んでいる最中で、その言語による作品の凄みに感じ入り、それだけ十分で、その背景、いや裏話などこれっぽっちも聞きたくなかったのである。
 あれから二十年余。今年のはじめ、少し酔って立ち寄った本屋で、帰りの電車で読むために購入した『石原吉郎詩文集(講談社文芸文庫)』(講談社、2005年)のいくつかのエッセイを読み、ショックを受けた。散文であるにもかかわらず、そこには彼のモチーフである「沈黙」が厳然として在る。二十年前に受けたのと同じ言語による凄みがある。「ある<共生>の経験から」は、共生というものを可能にするのは、人間に対するつよい不信感であること、そして、この不信感こそが、人間を共存させる強い紐帯であることを、自らの「特異な」経験から導きだす。「共生」が、連帯のなかに孕まれている孤独に裏付けられており、「共生」とか連帯とかが、そんな生易しいものではないという真実を照らし出す。「ペシミストの勇気について」は、石原と同じ「特異な」状況におかれ、「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない。」という言葉を残し、彼の作品に影を落とす同僚・鹿野武一の人間性とその追憶である。
 石原は関東軍の特務機関に所属。第二次大戦が集結した後、シベリアに抑留され、スターリンの死去に伴う恩赦により帰国が許される。そのとき、すでに38歳。その後数多くの詩を発表するも、散文の形式で自らの経験を告白し始めるのは、50代半ば前後からであった。
 週末わずかな時間で『望郷と海』を読みとおし、期せずして、詩から散文(エッセイ)への展開に従い、当時の読者を追体験することになった。石原自身も帰国後影響を受けた本にフランクルの『夜と霧』をあげているが、この『望郷と海』そして石原が残した詩の数々もこれに比肩するものとはいえないだろうか。

2012年5月7日月曜日

日本人の市場観・競争観


 米国・ピュー研究所による国際的な意識調査において、日本国民が市場経済に対して示した認識ないし心情は、きわめてユニークな、というよりアンビバレントな(一貫性のない)ものだった。つまり、「貧富の格差が生じるとしても、自由な市場経済で多くの人々はより良くなる」との問いに、主要国の中では最も低い結果を示し、また、「自立できない非常に貧しい人たちの面倒を見るのは国の責任である」との問いにも、同様に低い結果を示す。
 この結果の意味するところは、一体何なのか?
 こういう考えもあり得るのではないか。日本人は、自由な市場経済の下で、とても豊かになったとしても格差がつくことを嫌う。市場においては、そもそも格差がつかないようにすることが大切と考えている。いわゆる「等しからざるを憂う」という態度だ。確かに、市場によって格差の発生を未然に防止することができれば、国が貧困者を助ける必要はそもそもない。失敗者や脱落者を市場において作り出さないこと、これが大事なのである。
 こうした思考は、企業間にあっては、仲間内だけで利益を配分し、長期的に誰もが脱落しないようにしてきた談合の論理にも付合する。また、他方では、他人のニーズとは異なるかもしれないが、自分にあったモノやサービスの提供を求めることはせず、他の人と同じモノないしサービス、あるいは、価格であることに安心する消費者心理、裏を返せば、市場において単一のモノ・サービスしか提供されていなくとも、比較的穏やかでいられる、つまり独占が形成されていても寛容な姿勢につながる。
 先頃の、格差論において標的とされた市場競争を叩くのはいいとしても、その先にある競争の反対概念としての独占に思いを馳せることなく、つまり、独占の弊害を脇に措いて議論するのはフェアじゃないと思っていた。しかし、案外、市場競争を叩いていた人たちは、そもそも独占についてそれほど危機感を持っておらず、きわめて寛容な人々だったのかもしれない(つづく)。

【柳広司・『ジョーカー・ゲーム』シリーズ】


珍しくゆっくり過ごした土曜の午前、滅多に見ないテレビのチャンネルを合わせてみたら、目に入ってきたのが「王様のブランチ」の書評!?コーナー。かつて、筑摩の松田哲夫氏のコーナーだったアレである。そこでは、たまたま「ジョーカー・ゲーム」シリーズ最新刊で第三作目・『パラダイス・ロスト』が紹介されていた。前々から、気にはなっていた。陰影が強調され、繊細なラインに極彩色が施された表紙のイラスト。そして、旧陸軍の軍人が描かれているようだが、何か別物のようにも見える印象的なカバー。気にはなっていても、読み慣れないこの手のジャンルの本は、ややハードルが高かった。だが、うまい具合に谷原章介がこれを下げてくれたのだった。
電車での移動が、一日の大半を占めてしまいそうな日。午前7時から開いている最寄駅のエキナカの本屋さんで、シリーズ第一作『ジョーカー・ゲーム』の文庫版の平積みを見て、即購入。『パラダイス・ロスト』の刊行とあわせて、第一作目が文庫化されたようだ。
作家で元外務省主任分析官の佐藤優に言わせると「柳広司氏は、日本の小説にインテリジェント・ミステリーという新分野を開拓した」のだそうだ。007シリーズやミッション・インポッシブルで見慣れたハードなアクションはほとんどない。むしろ、これと全く反対の、静かに展開するカードゲームのようなストーリー。主人公であるはずの「魔王」結城中佐は、物語の前面にはほとんど現れず、常に背後にいるのもユニークで不気味。
結局、数日のうちに、シリーズ第二作『ダブル・ジョーカー』(2009年)と第三作『パラダイス・ロスト』(2012年)にも手を出し、あっという間に読んでしまった。「インテリジェント・ミステリー」という、何よりも切り口の面白さが受けたものの、事件の謎解きが何となくもたついた感じのあった第一作に比べ、第二作・第三作は仕上がりもまとまりも小気味よく、定番の風格を獲得したといっていい。角川の文芸誌『野生時代』で新たな作品も掲載され始めたようである。果たして、ハードカバーが出版されるまで読むのをガマンできるかどうか。

2012年4月9日月曜日

市場への信頼感に関する二つの問い

先月指摘した興味深い、米国における調査機関ピュー研究所による国際的な意識調査(Pew Research Center, 2007)の内容をちょっとのぞいてみよう。「貧富の格差が生じるとしても、自由な市場経済で多くの人々はより良くなる」。市場経済のデメリットを前提としたとしても、そのメリットは余りあると考えている人はどのくらいいるかという問いである。資本主義とか市場というものへの信頼に対する最も基本的な問いであろう。もちろん、モノゴトの是非をきいている訳ではない。認識の問題である。この問いに対する答え、日本は主要国の中で最も低い結果となっている。日本は49パーセントであり、他の主要国を見てみると、米国70パーセント、カナダ・スウェーデン71パーセント、イギリス・韓国72パーセント、イタリア73パーセント、中国75パーセント、スペイン65パーセント、ドイツ56パーセント、フランス56パーセント、ロシア53パーセントとなっている。
 アングロサクソン諸国は軒並み高い。大陸ヨーロッパ諸国とロシアは比較的市場に対する信頼が低いといえそうだ。わが国は、その大陸ヨーロッパ諸国や旧社会主義国である中国やロシアよりも市場を信頼していない。  市場経済は優勝劣敗のメカニズムである。したがって、市場競争の中で幸運を手にすることができず脱落する人が生じるのもやむを得ない。しかし、これらの人を放置しておいてよいはずもなく、これに対してはセーフティ・ネット(安全網)を通常政府が用意するとの理解が、講学上は一般的だ。セーフティ・ネットは、サーカスなどの綱渡りや空中ブランコにおいて演技者の安全を守る網(ネット)が語源である。しかし、「猿も木から落ちる」や「弘法も筆の誤り」という諺がある日本では、失敗した時、最悪の事態にならないためのものとして考えがちである。もちろん、それはそれで誤りではない。しかし、セーフティ・ネットにはもっと積極的な意味がある。この網があるために、演技者はよりリスクの高い難しい技に挑戦しようとする。ほとんど失敗をすることがないプロに対して、それなりのコストをかけて安全を図るのは、こうした理由があるのだ。
 二つ目の問い、「自立できない非常に貧しい人たちの面倒を見るのは国の責任である」に対し、日本は59パーセントを示し、半分強程度の同意しか得られていない。これは、先ほどのアングロサクソン諸国や大陸ヨーロッパさらには旧社会主義諸国よりも顕著に低い結果となっている。例えば、カナダ81パーセント、フランス83パーセント、イタリア・スウェーデン・ロシア86パーセント、韓国87パーセント、中国90パーセント、イギリス91パーセント、ドイツ92パーセント、スペイン96パーセント、米国でも70パーセントとなっている。
 この二つの問いへの回答は、一体何を意味しているのだろうか(つづく)

2012年3月19日月曜日

【後白河法皇編・川村湊訳『梁塵秘抄』(光文社、2011年)】

数年前、亀山郁男によるドストエフスキー作品の一連の翻訳でちょっとしたブームを起こし、一躍話題となった光文社古典新訳文庫。ブームが下火(?)になった現在も、確固とした書業は続けられているようで安心した。
 で、ここ数日読んでいるのは『梁塵秘抄』。先日読んだ高橋睦郎の『詩心二千年---スサノオから3・11』(岩波書店、2011年)で、その文学史上における異端ぶり・特異ぶりが述べられており、それに導かれつつ、学生時代に学んだ文化史・文学史の大きなブランクを踏み越えて読み始めた。しかも、手にしたのは光文社古典新訳文庫版。定番の岩波文庫版でも筑摩文庫版でもないところがミソだ。
 『梁塵秘抄』といえば、「今様」---遊女(あそびめ)や傀儡子などがもっぱらとした流行りの歌謡曲---を集めたもの。「現代風」という意味だから、今なら、さしずめJ-popとか演歌といった感じだろう(この両者にも大きな隔たりがあるが)。だとすれば、やっぱり訳業は、これを念頭においたものであってほしい。
 後白河法皇編・川村湊訳『梁塵秘抄』(光文社、2011年)は、『梁塵秘抄』の中から百首が選ばれ、一首ずつ、原則見開き二ページで、右に【訳】、左に【原歌】と「コメント」というか「訳者の思い(!?)」が語られる。たとえば、こんな感じだ。「暁静かに寝覚めして 思えば涙ぞ抑え敢えぬ はかなく此の世を過ぐしては いつかは浄土へ参るべき」。と、こんな原歌が訳者にかかると「ひとりねの朝に めざめて 見た夢の/あなたの面影を追いかけて/ひとり 涙流すのよ/はかなく つらい ひとの世を/どうして 生きれば/ほんとの幸せ くるのやら」となる。読んでいるうち、確かにベタだが、何かテレサ・テンや桂銀淑の歌を聞いているようではないか。石川さゆりや八代亜紀も出てきそう(笑)。訳者は、自ら告白しているように、女性演歌が好きらしい。好みが如実に現れている。
 竹内まりやの歌や荒井由実の詩のささやかなファンでもあるわたしなどは、この『梁塵秘抄』が彼女たちの手にかかるとどんな風になるかを思い描きながら、いつの間にか読んでいた。中島みゆきや大黒摩季にも歌わせてみたい......。秋元康が書いたなら......。「今様」こそ、こうした「悪ノリ」を楽しみ、それが、多分、源平相争う激動の時代に、詩歌における正統と異端の価値顛倒をよろこんだ後白河法王の意図にかなうのではないか......、と思ってみたりする。

2012年3月6日火曜日

【高橋睦郎著『詩心二千年---スサノオから3・11』(岩波書店、2011年)】

久しぶりに読みごたえのある書物を読んだ気がする。400ページにわずかに届かぬ程度で、取り立ててページ数が多いわけでもない。ただ、場所によっては、日頃の読書の領域から外れることもあり、そんな読み馴れない箇所に出会うと、都度、行きつ戻りつする。そして、読み手は、これを繰り返しながら、味読する。
 何らかのテーマに沿った一冊の著書でありながら、部分によって読みの緩急が伴うのは、その扱う内容が広範であり、これに取り組む著者の意欲と該博に出会う場合に限られる。
 本書が誘うのは、日本語の詩歌をめぐる通史的な詩論。これまで時代を区切ったものや、近・現代のみを扱う批評は少なくなかった。が、神代から現代までを通貫するものはいまだかつてなく、その気宇に驚く。歌謡、和歌、連歌、俳諧、漢詩、源氏物語に平家物語、猿楽、能、浄瑠璃、短歌、俳句、近現代詩を素材に、実作者の経験と直感、そして、湧き出るユニークな発想とイメージで語り描く。
 曰く、わが国の詩歌の歴史は、「からうた」と「やまとうた」の恋着と反撥の歴史だ。これは、母胎たるユーラシア大陸から切り離された列島弧として存在するわが国土に由来するのだ、と。
 本書は、3年にわたり大阪芸術大学文芸学科での講義がもとになっている。その後、岩波書店の読書誌『図書』に連載された。何事も、分かりやすい方がいいという時代である。しかし、大学の講義は、少し背伸びしてついていくくらいの方がいい。ちょうどこの本は、ときにわたしに少しの背伸びを要求するものだった。

2012年3月5日月曜日

競争・市場という言葉のイメージがよくない

近頃、「競争」や「市場」という言葉のイメージがよろしくない。「競争は格差を生み出す」などといって、競争は、昨今怨嗟の的となっている格差社会の元凶と見られている。そればかりではない。90年代に盛んに提唱された「規制緩和」による競争促進政策もいまや全否定されそうな勢いである。また、「市場」のメリットを少しでも強調しようものなら、あっという間に「市場原理主義者」のレッテルを貼られてしまう。「市場原理主義者」といえば、ひととき隆盛を究めた新自由主義(ネオ・リベ)としばしば同一視されたあの一群の人々(必ずしも正確には一致するものではないが)。多くの人は、彼らのことを、経済学上の空虚な理論を振りかざし、これを崇拝する教条主義者とみている。
 こうした「競争」や「市場」のイメージの低下、すなわち、これらへの信頼の低下は、資本主義を曲がりなりにも標榜するわが国において看過しがたい問題といわなければならない。とりわけ、筆者のように独占禁止法を中心とする経済法を専門とする人間からすれば、その存立基盤を揺るがしかねない。それは、独占禁止法がその名をもって示しているように「独占」を「禁止」する法律なのではなく、「公正かつ自由な競争を促進する」という、いわば「市場」の「競争」を促進することを目的とする法律だからである。独占禁止法も、ひいては資本主義というものも、一般国民の「市場」や「競争」というものに対する信頼を基盤として成り立っているのである。
 ここ数年、よく読まれた新書に大竹文雄『競争と公平感---市場経済の本当のメリット』(中公新書、2010年)がある。労働経済を専門にする経済学者の手によるものだが、この本の冒頭において興味深い調査結果が示されている。これは、米国における調査機関ピュー研究所によって行われた国際的な意識調査である(Pew Research Center, 2007)。
 ここで、日本は資本主義諸国の中で、例外的に「市場」や「競争」への拒否反応が強い国であるとの結果が出ているのだ。確かに、この結果に共感を寄せる人も多いのかもしれない。しかし、この結果を素直に受け入れてよいものだろうか?わたしたちは、市場の競争を通じて現在の経済発展を手に入れてきたはずである。果たして、市場や競争はデメリットばかりなのだろうか?(つづく)

2012年2月5日日曜日

無惨な景観、あるいは目障りな電線の混雑(2)

FTTHサービスの多様性を維持したまま、「無惨な景観」を解消するには、どうしたらよいのか。もっとも効果的な方策こそが、先月指摘した光ファイバー回線を複数の事業者で共用すること、つまり、局舎から加入者宅までの回線の開放である。しかし、こんな素朴で単純なことがいま現在できていないのである。
 伝え聞くところによれば、加入者宅の最も近くにある光ファイバー回線は、NTT東西ですら、すべての回線を利用できている訳ではない(現在、9割以上の地域で光ファイバー敷設されているのだが、実際利用されているのはわずか3割程度である)。
 NTT東西はいう。他の事業者と設備を共用すると、投資を回収できなくなり、今後、光ファイバーを敷設するインセンティブが失われてしまう、と。本当だろうか?すでに加入社宅までの光ファイバーは9割がた敷設を終えており、残りの1割はどうしても光ファイバーを敷設しなければいけないわけではあるまい(他に代わりうるブロードバンド・サービスだってあるわけだ)。むしろ、他の事業者と共同してその回線を使えば、他社から接続料を徴収することができ、NTT東西のこれまでの投資を回収することが可能になるのではないか。かえって、従来の設備を効率的に利用することができるはずなのである。
 すでにわが国は、顧客を囲い込み、先行者利益を求めて、設備の敷設を血眼になって行う段階はとっくに終わっている。むしろ、これからは、これらの投資を回収する段階であるといってよい。共用・接続を認め、接続料徴収こそ、設備の効率的利用に寄与することは明らかで、それを認めないのは、障壁を人為的に作り出し、参入の排除を意図したものと言えないだろうか。かつて接続に係る諸々の制度を整えたときの趣旨や議論はどこへ行ってしまったのだろうか。
 近時、景観条例等によって移動体通信サービスの鉄塔やアンテナが新たに建てにくい状況にあるという。しかし、景観面でより多くを考えなければならないのは、むしろ電柱と電線の混雑の方ではないだろうか。
 この議論は、移動体通信サービスにおいても、話は単純で、鉄塔やアンテナを各社ごとではなく、共用すれば、いまのような混雑や景観侵害を最小化できるはずである。なぜ、こんなきわめて単純なことがいつまでたっても常識とならず、何年にもわたり議論が続けられてきているのか。不自然でならない。われわれ消費者は、もっと身の回りにある景観の変化に敏感になった方がよいと思う。(おわり)

2012年1月29日日曜日

【今野敏『疑心-隠蔽捜査3』(新潮文庫・2012年)】

日頃全くといってよいほど小説を読まないわたしだが、この人の作品についてだけは、「はまりすぎてはいけない」と自制心を働かせ、ガマンのためいくつかのハードルをあえて設けている。
 それは、(1)シリーズを限定する、(2)購入は文庫版だけ、(3)なるべく新刊情報を追いかけない、の三つ。
 だが、昨日、オフィスからの帰りがけ、駅ナカの本屋でこの人の新刊が平積みされているのを見てしまった。今月の新潮文庫の新刊だった。出会ってしまった以上、迷わず購入。買ったら最後、徹夜をしてでも読み終わるまで止まらない。結局、昨晩は、午前2時過ぎまで夜更かしをしてしまった。
 今野敏著『疑心-隠蔽捜査3』(2009年)。『隠蔽捜査』(2006年)・『果断-隠蔽捜査2』(2008年)に続くシリーズの第三弾。文庫版はおよそ2-3年くらいのインターバルをおいて刊行される。
 きっかけは、母校の高等学校の50周年イベント。作者の今野敏氏は高等学校の先輩。正確なタイトルは忘れたが、数年前に「出版文化の未来」というようなテーマでささやかなシンポジウムが催されたことがある。わたしは、このシンポジウムの司会を依頼された。同氏はそのときのパネラーのおひとり。
 同氏の作品はテレビドラマ「班長」シリーズの原作にもなっており、たいへんな「売れっ子」だと聞いていた。しかし、テレビドラマはほとんど見ない上、小説の類も「鬼平」シリーズ以外熱心に読んだこともなく、正直関心の射程外で、お名前も恥ずかしながら存じ上げなかった。それでも、先輩でもあるし、シンポジウムでご一緒する以上、作品の一つくらいは目を通しておこうと、ふらっと入った本屋で手に取ったのが、文庫版の『隠蔽捜査』。そして、はまった。
 警察小説をそれほどたくさん読んでいるわけではないが、どの作品もストーリーの展開がユニークである。事件が起こり、それを振り返り、推理を働かせ、解決に至るという、現在と過去を行き来するこの手の作品群とは一線を画していることは確かだ。とにかく時系列に沿って、状況が展開する。主人公の置かれた状況と判断が、スピーディに臨場感をもって描かれる。読む者を放さない、今野敏の文章。巧みである。
 実は、<隠蔽捜査>シリーズは、すでにハードカバー版で最新刊の『転迷-隠蔽捜査4』と『初陣-隠蔽捜査3.5』が刊行されている。もちろん、読みたいのはやまやまだが、文庫版が出るのを待つことにしている。

2012年1月27日金曜日

【荒川洋治『昭和の読書』(幻戯書房、2011年)】

先日の朝日新聞夕刊の文芸欄で取り上げられたのが本書購入のきっかけ。この本が起こしたちょっとした「物議」に興味を惹かれ読んでみたのだが、版元の幻戯書房がHPでコメントしているように、そんな過激な内容ではなかったように思う。ただ、文学をめぐるこれらの文章には、現代の文学シーンに「もの申す」姿勢があちらこちらに見られることは確かだ。特にページ数にして本書の6割を占める書き下ろし、「昭和の読書」、「昭和の本」、「名作集の往還」、「詞華集の風景」においてそれは顕著である。先の記事は、これらの「書き下ろし」に注目したのだろう。
 それにしても、荒川洋治という人は余程本が好きなのだろう。気に入った本なら、同じ本でも数冊所有し(わかる、わかる......)、かつてしばしば刊行された日本文学全集の類において、個別の作家に充てられた巻にどの作品が収載されたのか(文学全集の編者が個々の作家のどの作品を代表作と考えていたのか)を比較検討している。もはや、エッセイを通り越して、文学全集からみた出版史であり、文学史の様相を呈している。この徹底さ、彼のやり方なのだろう。
 他の本をめぐるエッセイの多くは新聞の連載の再録。流行作品ではなく、かつてよく読まれたものが復刊されたのを機に取り上げているようだ。これは一つの手である。紹介されて読みたくなっても、なかなか手に入らないというのでは興ざめである。本書はよき文学(作品)案内であり、荒川洋治はよき文学の案内人である。そして、幻戯書房の最近の仕事、気になる出版社である。

2012年1月21日土曜日

【没後30年 西脇順三郎 大いなる伝統】

この1月10日から慶應義塾大学の南別館アート・スペースで「西脇順三郎 大いなる伝統」展が開催されている(2月24日まで)。今年は、慶應義塾大学の文学部教授で、詩人でもあった西脇順三郎の没後30年にあたる。これを機に同大学アート・センターに「西脇順三郎アーカイブ」を開設し、今回はこれを記念しての展示である。それほど、大きなスペースではないが、50数点に及ぶ著書・関連する雑誌・詩稿・ノート・書簡などが展示されている。
 T.S.エリオットの『荒地』は、西脇の訳でわが国に広く知られることとなるが、その訳稿の展示もある。多くの訳でさまざまな表現が与えられる『荒地』だが、「四月は極めて残酷な月だ」ではじまる西脇訳はこのノートに書かれている。また、大学時代にこの本と出会い、わたしがこの世界にふれる契機となった西脇著『詩学』(筑摩書房・1968年)。後に筑摩選書となるのだが、ハードカバー版は実は初見。筑摩選書版は、つねに手近に置いておきたいとの思いから、古書店で見つけるたび購入し、いまわたしの手元に3冊ある。同展で配布されている冊子も、西脇にはじめて触れる人に、西脇作品や同氏の作品に背景について知るのにとても便利。
 明日(20日)に講演会が予定されているようだが、法科大学院の講義が入っているので、サボるわけにもいかず、残念ながら欠席。

2012年1月17日火曜日

【荒川洋治『忘れられる過去』(朝日文庫・2012年)】

先日、六本木の青山ブックセンターで購入した荒川洋治『忘れられる過去』(朝日文庫・2012年)読了。詩人である荒川洋治のエッセイを読みたいと思ったのは、新学社の保田与重郎文庫の28巻に同氏が寄せていた解説を読んだからである。保田与重郎の「日本の橋」を素材に展開する同氏の解説は、保田与重郎の流麗な文章にすっかり魅せられている。「日本の橋」だけではないが、読んでみれば分かる日本語に「うっとりする」という感覚。本の上ではあれ、荒川洋治もこの経験を共有できる人であったということを知り、とてもうれしくなった。この厚くもない文庫本に74篇ものエッセイ。一つ一つは長くなく、通勤電車の中で読むにはちょうどいい長さ。一つ一つが、ウィットにとみ、ぴりっといい味を出しているのは、筆者のうまいところ。

2012年1月8日日曜日

【筒井清忠編著『政治的リーダーと文化』(千倉書房、2011年)】

昨年6月に出版された筒井清忠氏の編による『政治的リーダーと文化』(千倉書房)は、どの論文を読んでもユニークな視点に基づく興味深いものであった。
 瀧井一博氏による「『知』の国制」は、伊藤博文が政策シンクタンクとして大学(帝国大学・国家学会)を、現実政治の中から議会へ政策的知見を吸い上げるパイプとして政党(立憲政友会)を構想し、統治に文明作法を導入した「知の政治家」として評価する一方、彼の主知主義的なその思想故に民族主義的なナショナリズムを最後まで理解できず、またそれに足もとをすくわれた。ここに、政治的リーダーシップにおける合理性の追求と非合理性への目配せの微妙な問題を見る。
 また、奈良岡聰智氏による「近代日本政治と『別荘』」は、大磯を始めとする湘南の別荘地の形成と、近代日本政治における別荘の果たした役割、そしてその消滅を描き、政治プロセスや政治家を研究対象としてきた日本政治史研究の対象に「場」という新たな要素を持ち込んだ。そして、湘南の「別荘」地の形成には、ここでも伊藤博文の知性と開放的な性格が大きく寄与していたとの指摘。『坂の上の雲』・『翔ぶが如く』での伊藤は、哲学なき周旋家、思想なき現実主義者として描かれているが、この司馬史観に対するもう一つの伊藤像が、両論文では示されている。「知の政治家」伊藤博文の読み直しが、再び起こるかもしれない。
 出色は、細谷雄一氏による「貴族の教養、労働者の教養」である。第二次世界大戦前・戦間期・戦後までの20年間にわたって英国外交を支えた二人の政治指導者、アンソニー・イーデンとアーネスト・ベヴィンの友情と両人の卓越した資質に注目し、それを育んだ社会的背景は何だったのかを問う。保守政治家のイーデンは上流階級の出自、イートン校・オックスフォード大出のエリート。他方、労働党政治家のベヴィンは貧しい農家の私生児で母親とも8歳で死別、その後労働者となる。異なる階級、異なる政党に属する二人の政治家が、なぜかくも緊密な信頼関係と協力関係を築くことができたのか。彼らに見る優れた外交指導者に必要な資質とは何か。
 貴族階級の没落と労働者階級の勃興。政治の舞台が庶民院に移った。そこで二人の運命は交錯し合う。確かに、両人の知識と政治能力を磨いた場所は違い、教養や知識の意味も大きく異なっていた。だが、実際の経験や試練によって能力を磨き、自立した精神によって道を切り拓き、勤勉さと誠実さによって交渉を進めていく二人の資質は、多くの点で共通していた。おそらく、ここから一つのことが言える。政治的指導者に必要な知性は、難局に向き合った経験と相手からの信頼を増幅させる力によって築かれる。これらは後天的なものである上、獲得するのに出自は関係ない。難局を経験し、それらをどう克服してきたかによる、と。

2012年1月5日木曜日

無惨な景観、あるいは目障りな電線の混雑

いま、澄みわたる冬の空をさえぎるのは、都心にあっては折り重なる高層ビル群。そして、郊外にあっては、街路と並走し、ときに横切る電線たち。試みに、最寄りの電柱を見上げてほしい。
 黒いケーブルが複雑に幾重にも交差し、絡みつき、隣の電柱へと架かる。垂直にのびる柱が接近するたびに黒色のワイヤの密集が繰り返される。電柱は、それだけ多くの電線を支えるわけだから、金属製のベルトを何本も巻き付けられ、そこから水平に金属製の腕(かいな)がのびている(腕金と呼ぶらしい)。
 街中を歩いていて、わずかに視線を上げるだけで飛び込んでくる「無惨な景観」が、そこここにある。
 こうした景観は、ブロードバンド・サービスの普及によって顕著となった。しかし、わが国におけるブロードバンド・サービス普及の立役者であったADSLは、かねてから敷設されていた電話回線を重畳化してサービスを行っていた上、他社にも回線を開放していたので、ここまではひどくならなかった。
 にわかに電柱が混み始めたのは、FTTHサービスが一般化してからのようだ。従来からの電話回線敷設の優位性を利用し、FTTHサービスにおいて圧倒的なシェアを占めるNTT東西に加え、電力線を買収しサービスを展開するKDDI、ケーブルテレビを利用しサービスを提供するケーブルテレビ各社が、それぞれに光ファイバー回線を敷設し、電柱を利用するものだから混雑することとなる。
 では、「無惨な景観」を解消するにはどうすればよいか。FTTHサービスを提供する会社を絞り込めばよいのか。仮に1社に集約すれば、電柱の混雑はいくらか緩和するかもしれない。しかし、われわれは単一の事業主体が提供するサービスを甘んじて受けなければならなくなる。サービスの多様性を維持したまま、つまり、サービスの競争を維持したまま電柱の混雑を解消するには、光ファイバー回線を複数の事業者で共用することである。ADSLと同様、回線を開放することである。(つづく)