2014年1月8日水曜日

思考の現場に立ち会うということ

 いつも、身近な、目につきやすいところに置いてある一冊。小さな新書判の本なのだけど、もう何度読み返したか知らない。辻井喬さんの『詩が生まれるとき〜私の現代詩入門』。装いが改まるずっと前の講談社現代新書の一冊として一九九四年三月に出版された本だ。
 わたしは、この本を読むたび、いつも不思議な感覚におそわれる。建て替えられる前の三田・南校舎の教室の記憶……。この気分は、他からは決して味わえない無上のものだ。
 これには理由がある。わたしは、この本を一度「聴いている」。たしか法学部の学生だった九二年の秋、いまも続く「久保田万太郎記念講座」に、ビジネスの一線を退いたばかりの堤清二氏が、辻井喬として三田の山に現れた。毎週火曜日、全部で十一回の講義だったと思う。
 西武セゾングループを率いた堤氏に関心がなかったわけではない。だが、同氏の詩人・作家としての顔に、より魅かれ、興味を抱いた。俯き加減で、はにかんだその容貌は、どこか思弁的で、他の多くの経営者とは一線を画すものだった。
 講義は周到に準備されていた。時折目を落とす手元のノートはびっしりと小さな文字で埋められていた。渦巻きを描くように、思考の深みへと導いていく講義であった。詩を素材としながら、取り上げられる主題は哲学そのものだった。思考へと導かれ、思考の場に臨み、想像力とは何かを問いかけられた。
 講義の理解には、しばしば関連文献に手を伸ばすことも必要だった。西脇順三郎の『詩学』やテリー・イーグルトンといった文学理論というものに取り組んだのもこの講義に誘われてのことだった。少し背伸びが必要だった。
 詩というものを通じ、テクストを読むことがいかに創造的な活動であるかを学んだ。辻井さんが一つの詩論構築を試みようとする、そんな思考の現場に立ち会えた幸せを改めていまかみしめている。

法曹サービスの量と質

 ロースクール、ひいては法曹養成制度の見直しの中で、常に意識されながら、いまいちその本質が見えてこないのが、法曹人口の問題である。いや、平成24年現在、弁護士は32,134人、裁判官は2,880人、検察官は1,810人で、合計で36,824人と、いわゆる法曹三者の人口の数値的な現実はその推移も含め、むしろよくわかっている。
 よく見えないのは、この数値を「どう捉えるべきか」、そして「何をするべきか」である。これは、かつての司法改革の際も、いまの見直しの際も変わっていないように思う。
 まず、法曹人口の多寡に対する認識からして、かつてと今とではまったく違っている。司法改革前、これからの法曹需要に対する法曹人口の不足可能性がしばしば指摘されていた。だから、司法試験の段階ではなく、より早期の法曹養成段階で、法曹増加への要請に対応することが求められたのである。しかし、現在はその逆で、不足どころか過剰が問題である。
 この原因は、いったい何に求めるべきだろうか?かつての「見込み」が、この10年ほどで一気に収縮してしまったというのだろうか?それとも、この「見込み」がそもそも間違っていたのだろうか?真の見直しは、政策判断のもととなった認識の検証から、始められなければならないはずである。
 ところが、法曹人口が過剰と見るや、今度はその減少に向けて安易に舵が切られる。そして、批判の矛先は、品質に向かう。司法試験の合格者を増やし、法曹人口を増加させたから質が低下したといわれる。マスコミも、まだ実務にも出ていない司法修習生たちの試験(いわゆる「二回試験」)結果を「質の低下」の代理指標といわんばかりだ。
 どこの誰が、法曹サービスの品質を、試験時の学力で決めようというのか?高い品質の法曹サービスは、知識を豊富に持っている(覚えられる)ことが重要なのではない。重要なのは、利用者の意向に真摯に耳を傾け、彼らの問題を法的な知識を使って適切に解決する能力ではないのか?
 法曹サービスの品質は、このサービスの需要者である利用者(一般消費者や企業)から見ての評価でなければならない。われわれの評価以前に、真に適性のある法曹の出現が妨げられることの方が悲しいことのように思うのだが。