2007年4月20日金曜日

「橙」の誘惑---ブロック・ロディア

ここ数年、早朝出勤のライフパターンがすっかり定着した。今日も午前三時には背広に着替え、すでに出かける準備は整っていた。起床してから始発電車の時間までは数時間ほどだが、早朝の数時間は侮れない。一仕事できる十分な長さがある。いつも夜が明ける前から、自宅のリビングか、近くのファミリーレストランに陣取り、原稿を書いたり、資料の整理をして過ごす。
講義のある日は、とりわけ早くに目が覚める。今日もそうだ。その所為か、午後からの講義の準備は午前九時過ぎにはすでに終わっていた。いつも思うのだが、講義の前に集中を要する仕事は何となく入れたくない。単に気分の問題かもしれないが、後に別の仕事が控えていると、たとい時間が十分あっても残り時間が気になってしまう。
いつもなら、研究室の棚から散歩の友を見つけ出し、近くのお気に入りの喫茶店で読書に耽るところだが、今日に限って別のことが頭に浮かんだ。先日、立ち寄った本屋でふと手に取った雑誌—名は忘れてしまった—にフランスの老舗文具メーカー・ロディア(Rhodia)の新作展示会の情報が出ていた。メモをとったわけではなかったが、日時と場所は不思議と記憶していた。
「確か、今日までだったはず」と思い立ち、とるものとりあえず会場の青山・スパイラルビルに向かった。案の定というか、ちゃんと確かめてから行くべきであった。現地に到着したのは、午前一〇時。早すぎた。会場のスパイラルビルは午前十一時からオープン。結局、近くのブレンズカフェで蓮實重彦の近著『「赤」の誘惑—フィクション論序説』を読みながらしばし開場を待つことに。半時ほど読書に集中し、ほぼ向かいにあるビルの入口付近。RHODIA ORANGE一色に染まったブースに足を踏み入れると、今まで見たことが無いロディアに、文具好きとくにノート好きを自任するわたしは「橙」に誘われ導かれたことを素直に喜んだ。
定番ラインの充実に加え、「メタリック」や「クラシック」等のこれまでオレンジ一色だったラインに新たなテイストを持ち込んだものや、「ブティック」というエレガントなイメージの新機軸の提案もなされていた。
最近では、講義中、学生が鮮やかなオレンジ色のノートやメモを手にしている姿を見かけるようにもなった。リーズナブルな値段に加え、近年の文具ブームも後押ししているのかもしれない。企業総務部御用達のアスクルやカウネットが隆盛する一方で、自分で使うものだけは少しこだわってみても、というユーザーが確実に増えている。
わたしの場合、ロディアメモ(BLOC RHODIA)は、そのコンパクトさと印象的な紫色の方眼、そして小気味よい「切れ味」(!)、これにすっかり魅了され、しばしばまとめ買いをする。デスクの上に置きメモ帳として、鞄のポケットに入れTO DOリストとして重宝だ。用件を終え、ミシン目のところで切り離す瞬間の快さは、一つの仕事から解放された快さと微妙にシンクロする。
大きさは手のひらにのせてあれこれ書くことができるNo 11がベストだと思う。数ある種類の中で、これしか使ったことがないのだが......。将来これらの新シリーズにもきっと触手が伸びることになるだろう。
フランスの老舗ブランドの新しい挑戦。日本にどう浸透するするのかしばらく注目していくことにしたい。

2007年4月19日木曜日

名文"家"の条件

セメスター制がわたしの勤務する大学にも定着したらしく、半期ごと(春と秋)、ほんの幾人の学生が、わたしの下で論文を書き上げ、そして卒業していく。締切を控えた十一月(春卒業)と六月(秋卒業)は、彼らにとって気の毒な話かもしれないが、一ヶ月余の期間、毎週土曜日を返上し、一対一で議論しながら論文を仕上げていく。学部に所属していないわたしの下で論文を執筆するのは、すべてが通信教育部の学生たちであり、その多くは平日仕事を持ったビジネスマンや公務員である。彼らにとってじっくり論文について議論が出来るのは土曜日くらいなものである。日曜日は前日の議論を踏まえ、その手直しに充てられるのだから。
この時期、わたしは「壊れたレコード」のようになる(この比喩は死語となりつつあるかもしれない。今流に言うと「傷ついたCD」か)。
当然、各々の論文はテーマも違えば内容も随分と異なる。したがって、内容について議論しようとするかぎり、決して「壊れたレコード」のようにはならないはずだ。だが、実際にそうなってしまうのは、各人に対する論文指導が文章指導を伴うものだからである。
この半期に一度繰り返される論文指導ならぬ文章指導は、奇しくも自らの文章に対する何らかの評価基準を開陳する場になり、かつ、そのことを自身で逐次確認する場にもなっている。
数多くのカタログの中でも指導のかなり早い段階でしばしば登場するレパートリーが「名文家の条件」である。
名文家の文章は、わたしが見るところ、三つの要素が備わっている。一つは、一文(句点までの距離)が長いということ(長=文章)、いま一つは、主語がしばしば欠如するということ(欠=主語)、そして最後に接続詞が少ないということ(少=接続詞)である。
いかがだろうか。疑問符がチカチカ点っている人もいるかもしれない。というのも、この三つ、いずれもが常識的には名文の要素とされている明晰性や透明性とは正反対のことを述べているからである(ただし、この明晰性も透明性もその指し示す意味合いの幅は一定ではないようだ。前者については蓮實重彦の『反=日本語論』(ちくま文庫)所収「明晰性の神話」を、後者については井上ひさしの『自家製・文章読本』(新潮文庫)所収「透明文章の怪」をご覧あれ。)。この話をすると多くの人が怪訝な顔をする。この人は何を言い出すのかと言わんばかりだ。望むところである。
きっと、人は名文を書こうとしている。あるいは、名文が書きたい。だから、そんなコツがあれば知りたいし身につけたい。市中に出回る文章本はそれを揶揄し嘲笑する本(齋藤美奈子『文章読本さん江』筑摩書房!)でさえ、そのことを物語っている。でも、名文家ではないわたしに名文を教えることができようか。仮に名文家であったとしても、ここでそれを伝えるつもりは毛頭ない。
先に述べた三つの要素、これらは「名文の条件」ではなく「名文家の条件」なのである。つまり、日本語を文章の中で巧に操ることができる人以外は、文章に透明性を失わせる「長=文章」は止めておいた方が身のためだ。主語がきちんと明示され述語と有意に結びついていた方が読みやすいに決まっている。まして、筋道や論理関係を明らかにする適切な接続詞の配置は不可欠だ。この要素を破りながらもなお常人が評価可能な文章を書けるのが名人=名文家。そう、わたしが言いたいのは一つだけ。「自らの分を弁えて文章を書け」ということだ。「吾を知る」ところから自分の文章が生まれる、そういうことだ。

2007年4月13日金曜日

硬骨漢の「みやげ」---木村屋總本店のあんバター

昨日、友人のO氏が今回の人事異動で勤務地が変わり、転勤先である京都に無事着任したことの知らせが届いた。彼にはここ一年余り会っていないが、これまで銀座が彼の勤務地であったこともあり、同じく近くに勤めるI氏とともに、しばしば顔を合わせていた。さして重要な話があるわけではない。仕事や家族のことなどあれこれ話すだけである。ただ、二人とは年齢や家族構成も近く話が合った。
多忙な三人がそろうのは、いつも午後十時をまわってから。彼らの仕事が終わる時間だ。終電までのほんのわずか、気のおけない友との気楽で快適な時間をすごしていた。
ある日、I氏とともに先に酒杯を傾けているときである。いつものように午後十時をすぎたころ、O氏は息を切らして店に入ってきた。" かけつけの一杯"でビールを呷ると、何やらゴソゴソと手にしていた袋をのぞき、「たいしたものではないのだが......」と言って、木村屋總本店の文字が入ったその袋から丸々としたパンを一つ取り出した。わたしが見るところ、O氏は食通振ったりグルメを気取るタイプの人間では全くない。むしろ、その対局にあるともいえる硬骨漢である。その彼が、である。パンなぞを---しかも、よく見ると餡が入っているパンをである---「みやげ」と称して持ってきたのだから、一同(といっても二人)彼の行動を訝しがっても不思議ではあるまい。
そんな二人を察してか、O氏はたたみかけるようにその「みやげ」のあんぱんの説明を始めた。聞けば、木村屋總本店とは仕事上の付き合いがあるらしく、点在する工場がどこにあり何を作っているだの、今日の「みやげ」は銀座本店の上層階にある工場で作っているだの、なかなか詳しい。
件のあんぱんは木村屋定番のそれとは違い、少しだけ大ぶりだ。「あんバター」というらしい。つぶあんとホイップされたバターが柔らかめのフランスパンの生地の中に入っている、新しいあんぱんのかたち。粒あんの歯ごたえが無ければもの足りないし、単なるバターでは少々重い。多少引っ張ってもちぎれないパン生地もいい。パン生地はもう少し塩が効いているといいかもしれない。
O氏によれば、彼の細君もお気に入りだと言う。だからであろう。食べ物にちょっとうるさいI氏やわたしにも、自信をもって薦めたのである。
後日、銀座に用があり、夕方六時過ぎごろに銀座・木村屋總本店の前を通りがかった。ふと、あの「みやげ」のことが頭に浮かんだ。早速買い求めようと店内に入ってみたものの、すでに売り切れ。店員によると、早い時間でなくなることもしばしばだという。もっと早くに来ることを勧められた。多忙なO氏もちょっとした暇(いとま)を見つけて木村屋に走ったのであろう。ガタイのいい彼が混み合った店内でパンを物色し、小振りとはいえ一家に三つずつ計九つものあんぱんを抱える姿は何とも微笑ましいではないか。

2007年4月11日水曜日

「時候の挨拶」を誘う便箋---鳩居堂・季節の便箋(*)

そういえば、ここしばらく手紙というものを書いていなかった。依頼やお願いごとは専らeメール。礼状は妻まかせ。自らペン/筆を執っても簡単な一筆箋で済ますこともしばしばであった。
ところが、年明け早々、ひょんな理由で何通もの手紙を書かねばならなくなった。かつてはよく書いていた。それが、学生時代からの一つの癖のようにもなっていた。郷里から離れてしばらくは両親に宛て、学生のころは世話になっている師に宛て、婚約していたときは将来の妻に宛て......。
手慣れたもので、長いものでもそれほど時間はかからなかった。便箋に封筒、切手に万年筆は、常に持ち歩いていた。別にマメな性格ではない。単に文字を書くことが好きで、ペンや筆を思いつくまま滑らせていた。
便箋などをあれこれ気にするようになったのは、大学の頃であったろうか。ちょうど書を習っていたころ、師へのお礼や連絡は原則手紙であった。電話で連絡をする際にも、電話をかける日時をあらかじめ手紙で伝えるほどの丁寧さであった。これが伝統であった。毎週、少なくとも5-6通は書き送っていたと思う。
手紙の体裁にも人一倍気を遣った。相手は書の先生である。初めて先生に宛て書いた手紙は、5時間以上もかかってしまった。
手紙にまつわるいろいろな作法やルールもそのとき覚えた。その手の本もずいぶんと読んだ。やがて、手紙を書き送るのが頻繁になると、これらの作法やルールの中に、あるいはそれらをこえて、一工夫や楽しみを見つけるようになる。
例えば「時候の挨拶」。受け手は当然のことながら、送り手にとっても書くことで季節を感じるこの上ない瞬間である。だが、案外大事にされていない。書き慣れていない人の「時候の挨拶」は実に単調でつまらない。おそらく「親切すぎる」実用本と「優秀すぎる」ワープロソフトの賜物だ。
確かに、大方の人にとり手紙を書くときの最初の躓きは「時候の挨拶」である(その証拠にわたしの妻は常にここで躓いている)。しかし、手紙を数書くようになると、おのずと頭に浮かんでくる。ちゃんと自然や季節の移り変わりに目が向いているからだ。でも、最初からこれを求められるととても辛い。実際、わたしもそんな感性なんてつゆも持ち合わせていなかった。
そんなとき、この便箋に出会い、以来変わらず使い続けている。シルクスクリーンで描かれた美しい鳩居堂の便箋。身近な草花が一枚ごと代わる代わる配され、ちょっと早めに店頭に並ぶ。
——この絵柄を少しの間だけ記憶に止めておくことにしよう。そして、辺りにこれらの花が咲いたとき、仕舞っておいたその便箋を取り出そう。
さすがに、この便箋の絵柄のために「時候の挨拶」を略して構わないということにはならないだろう。けれど、これらの草花をどこで見つけただの、どんな具合に咲いていただのを書いていくと、自ずと「時候の挨拶」になっているから不思議である。かつてのわたしも随分と助けられた。

件の手紙のために、年明け早々、わたしは鳩居堂へ向かった。あの便箋も変わらず店先に並んでいた。「降りしきる」と銘打たれたその便箋は、梅の枝に雪があしらわれていた。稀に見る暖冬の東京。今年は、この便箋を使わずに春を迎えることになるのだろうか。
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(*)慶應義塾大学書道會機関誌『硯洗』63号(2007年3月)より転載

2007年4月10日火曜日

ポルト・パロール

先日、詩人の蜂飼 耳(はちかい みみ)が、東京新聞の夕刊(2007年4月4日)で姿を消した詩集専門店のことに触れていた。別にこの書店について詳しく書かれていたわけではない。書き手によって放たれた詩集が「こころぼそくさまよい」ながらも、なぜ詩集というものがいまだ存在しつづけているのか、そしてそもそも詩集とは何なのかを問いかける文章の中で、ほんの少しばかり触れているにすぎない(なお、ここで彼女はその理由を「(ある作家がいうように)詩集を一冊いつか出したい、という思いがほそぼそとでも世の中に漂っているからではないだろうか」と、とりあえずの推測的解答を寄せている)。
さて、彼女が書き記した「都内にあった詩集専門店」。これは、おそらく渋谷西武の地下にあったポルト・パロールのことだろう。かつて、足繁く通った書店である。ここは、西武系の書店・リブロの一角にあったが、仕切られた中に足を踏み入れると明らかに異なった空間を感じることができた。扉の背が低かったわけではない。しかし、何となく身を屈めて入り口をくぐると、思考と想像の世界に沈み込んでいく感じになった(わたしの記憶が確かであれば、池袋西武にもポエム・パロールという姉妹店が存在していたと思う)。
学生時代、法学部に在籍しておりながら(否、だからこそ)、言葉というものの力につよい関心と憧れを抱き、いわゆる文学系の講義にしばしば耳を傾けた。大佛次郎研究の福島行一による「日本語表現論」、今は亡き江藤淳の「日本文化論」、中でも現代詩や批評理論、言語哲学や思想の世界にわたしを誘ってくれた辻井喬の「詩学」。わたしが、大学に籍を置いていたとき、偶然にもわが校の久保田万太郎記念講座の講師が辻井氏であった。彼が当時巨大な流通グループを率いていたことは当然に知っていた。しかしその事実とは裏腹に彼の詩作品にあらわれている資本主義に対するどこかためらいを伴ったまなざしは、常に気になるもう一つの貌であった。
資本主義の成熟の象徴ともいうべき消費社会。その極ともいえる百貨店の中に詩集の専門店をおくという発想自体、矛盾とも皮肉(イロニー)とも。まさに、辻井氏が講義の中でしばしば引用した西脇順三郎の『詩学』にいうポエジーにほかならない。
渋谷は、今でもポルト・パロールの思い出とともに猥雑な中に人間存在の醜悪さや一筋縄では行かない世の中を直視せよというメッセージをわたしに送り続けている街だと思う。

2007年4月9日月曜日

猫のように

久しぶりの休日。妻が友人と、ある著名人の講演会に出かけるというので、夕食時銀座あたりで落ち合うことにし、わたしと娘は神宮外苑にある児童遊園に出かけることにした。午後4時近くまで手一杯遊んだ後、地下鉄で銀座へ向かった。待ち合わせの時間まではしばらくあったので、書店で時間をつぶすことにした。気になる本もあることだし......。
銀座で一カ所だけ本屋に立ち寄るなら、わたしの場合、文句なく教文館を選ぶ。娘と一緒ならばなおさらだ。
教文館ビルの6Fには絵本の専門店・ナルニア国がある。ワン・フロア全体が児童書なので、かなりの絵本が揃っており、このごろ絵本が面白くなってきた彼女にとって都合のいい場所である。
絵本を読むようになったのは、大学に入ってから。幼いころの思い出はほとんどない。子どももいないのに、絵本に関心を持ち、しばしば児童書の専門店を出入りしていた。お気に入りは、青山の「クレヨンハウス」。だが、半ば敬意に近い感情をもって出入りしていたのは「たまプラーザ童話屋」。たまたま指導教授のお宅がたまプラーザにあったので、そこに伺う際にはかならず立ち寄った。
確か「たまプラーザ東急SC」3階だったと思う。かなり奥まったところにあったと記憶している。小さな店舗だったのに、そのかなりの部分が「こどもべや」に充てられ、木の椅子がいくつも置かれていた。そこにある本にはシールが張ってあり、自由に読んでよかった。ときどき「おはなしの時間」と称し、ここの従業員が読み聞かせをしていた。いまから考えても、とにかくすごい本屋だった。
いつの頃だろう。たまたま立ち寄ったら、猫のようにすでにいなくなっていた。
「童話屋」が姿を消し、しばらくの間は絵本漁りをしなくなった。身辺が急に慌ただしくなったからかもしれない。そんなおり、ふと気づくと教文館にナルニア国できていた。98年頃の話だ。
きっと両者は全く関係ないのだろうが、私の中では、姿を消すのも現すのも気まぐれな猫のような本屋たちだ。

2007年4月7日土曜日

髪切りと硝子の氷柱

午後、図書館でしばらく資料の探索をした後、夜に予定されている夕食会まで少しばかり時間が空いたので、久しぶりに髪を切りにいくことにした。いつも切ってくれる方が数年前に日比谷から日本橋に移られたのを機に、数ヶ月に一度、日本橋三越の美容室に足を運ぶようになった。もちろん、わざわざそこまで行くにはそれ相応の理由がある。
髪を切るに当たり、いろいろと注文をつけるのは昔から得意ではない。座ったきり、何も言わずに粛々と切ってくれる人がいい。もちろん、会話は必須だが、沈黙の時間も気まずさを感じさせない、うまい距離感をとれる人がいい。だから、いつも同じ人にお願いしている。
帰りは、必ず、美容室近くのタロー書房に立ち寄る。それほど大きくはない3階建てのお店であるが、要点を押さえた品揃えで、特に文庫本のプレゼンテーションが出色である。そそり立つ透明な氷柱の什器に文庫本が据えられている。他では見られないプレゼンテーションだ。本の表紙が目に飛び込んでくるうまい配置。そして、それとなく飾られているいくつかの絵画。「精神の散歩道」と称するこの店の面目躍如といったところか。

2007年4月5日木曜日

『原稿用紙の知識と使い方』

事情があって、お昼過ぎから日吉キャンパスにいた。行き帰りの電車で読もうと、大学図書館で借りたばかりの本・松尾靖秋著『原稿用紙の知識と使い方』(南雲堂、1981年)を片手に出かける。実は、以前より原稿用紙なるものについて調べていた。あのマス目のかたち(一般的なルビ用の余白があるもの以外にいわゆる障子マスなど)に「二〇掛ける二〇」の四〇〇字詰め。一体、いつからあのかたちになったのであろうか。そんな疑問を、先日、編集者のW女史に告げたところ、この本を薦められた(彼女は読んでいないらしいが)。
それほど厚手の本ではないため、本当に行き帰りの電車で読み終わってしまった。いくつかのことについては、何となく疑問が氷解したものの、いまだこの本は推測が多く、また、事実関係も曖昧で、大部分の事実がわたしにとっては既知であった。一般向けの読み物としては面白く読めると思うが、わたしの疑問や要求に余すところなく答えてくれたとはいい難かった。
この問題、まだまだ深みにはまりそうである。

『築地(TSUKIJI)』

昨日の夕方、東京都心は空が急に暗くなり、雷とともに霙交じりの雨となった。今朝の新聞によると4月の雪は19年ぶりだと言う。帰宅のタイミングを逃したと思ったが、本日中に送らねばならぬ郵便物があったので、激しい雨にもかかわらず帰途についた。
郵便局で所要を済ませた後、久しぶりに流水書房・田町店に立ち寄る。『築地』(テオドル・ベスター著、和波 雅子=福岡 伸一訳(木楽舎、2007年3月)税込3,990円)が平積みされていた。いくつかの新聞・雑誌の書評に取り上げられていた本だ。市場を「しじょう」と読むにせよ「いちば」と読むにせよ、これに関心をもつ者の触手を動かさずには置かぬ魅惑的な地名そしてタイトルである。
現下の都知事選の争点にもなっており、奇妙な時事性を兼ね備えることにもなったようだ。現都知事が再選されれば、あの風情が消滅するとの強い危惧を持ち、最近、俄に築地に通うようになった(昼食が主であるが)。たまたま、手に取った本のページをめくったら、かつて築地市場が大田市場への移転が企図され、挫折した経緯が述べられていた。
当然のことながら、この本をその場で手に取り購入することを考えた。しかし、余裕のない鞄と激しい雨にそれを躊躇した。比較的大部なこの本を持ち歩くには、書店の小さな袋では不十分。逡巡した挙句、手元にあるノートにこの本のことを記し、購入は次の機会を待つことに。

2007年4月4日水曜日