2011年9月15日木曜日

宮崎市定『雍正帝---中国の独裁君主』(岩波書店、1950年)

 近々中国に出かけるから、と意識している訳ではないが、何となく手元にある中国関連書籍に手がのびる。帰省した折も、かつて読んだ中国の古典をあれこれ手に取っては眺め、実家の本棚の前に暇さえあればたたずみ、ページをめくっていた。古典とはいえないのだが、懐かしい一冊を見つけた。宮崎市定『雍正帝---中国の独裁君主』。岩波新書の青版で、手元にある本は、1989年に増刷。確か今上陛下が愛読であったか何かということで増刷されたものであったように記憶している。大学に入って、すぐに日吉の本屋さんで購入した覚えがある。康煕帝と乾隆帝の間にあってあまり目立たない人物であるがその功績に着目し、東洋的君主の典型的姿を活写した名著。一歴史学者の筆になる所為か、記述は実直素朴。珍しく平和で安定していた時代だったためか、時代活劇のような面白さは無い。しかし、雍正帝が政治をないがしろにせず、真面目に職務にあたっていた姿が、現実にやり取りした手紙の内容などから窺い知れ、その仕事ぶりだけでなく人柄をも想起することができるようになっている。資料の使い方など、実証主義的な姿勢がいかにも歴史学者らしく、爾来、宮崎市定の作品に魅せられたわたしは、この後に刊行される宮崎市定全集を学生時代になけなしのお金を投じて全巻購入するという暴挙するはめになったのは、まさに、この『雍正帝』という本のおかげである。

2011年9月6日火曜日

「○○目線」の強制力

 近頃、耳にするたびに、しっくりこないというか、半ば反発さえ感じてしまう言葉がある。「○○目線」というフレーズ。最近では「○○目線で考える」というふうに比喩的に使われることも多いようだ。
 わたしは、このしばしば政治家やマスメディアによって繰り返される「国民の目線」とか「消費者目線」というフレーズに、言いようのない強制力を感じ、いささかナイーブかもしれないのだが、嫌悪さえ感じてしまうのである。
 そもそも「目線」とは、「視線」の意の俗語であり、目を向けている方向をさしている。最近刊行された中村明『日本語・語感の辞典』(岩波書店・2010年)によれば、くだけた会話に最近よく使われるのだという。
 「目線」をやめて、「国民の視線」とか「消費者視線」というと、主に国民や消費者の興味や関心の対象、つまり「視線の先」に注意が向けられているように感じる。だが、「○○目線」というと、興味や関心の対象を見る目の位置又はそれをいう人の対象や問題への姿勢や態度といった「視線の源」に重みを置いた表現のように見える。しかも、その姿勢や態度が正当で、それを採ることを他者に求める、あるいは、それを強制し従わせるかのようなニュアンスを感じる。しばしば「目線」の前には「国民」とか「消費者」など一見正当な主張であることを裏付ける言葉が来るし、「上から目線」という言い方も影響しているのかもしれない。
 わが国には、ほかに「視線の源」を意味する言葉が豊かにある。たとえば、対象を見る目の位置や対象に対する位置取りを意味する「視点」、考察を加える際の立脚点をさす「観点」、物事の観察や判断、議論をする際にその人間が拠りどころとする立場をさす「見地」、ものを見たり考えたり論じたりする際の基本となる立場をさす「視座」、もっとも一般的な和語として「立場」があるだろうか。
 「視線」とは違い、「視線の源」を意味する「目線」は「視点」と置き換えることが可能である。だとすれば、「目線」を使わなくたっていいではないか。それでもなお、「目線」を用いる背景は、根拠無き主張を相手に押し付ける話者の傲慢ではないかとさえ思う。
 アプローチは異なるものの、わたしと同様、近頃の「目線」に違和感を持っていたのが先の『語感の辞典』であった。この「目線」の項目には、辞典としては不自然なくらい情緒的な蔑みの言葉で記されている。すなわち、「......芸能界やマスコミなどの業界の仲間内のことばが、わかりやすいこともあり電波をとおして一般に広ま」った。「......改まった会話や硬い文章で使うと今でも品格を落としかねない」と。