2008年2月12日火曜日

「文庫本の小口」

 先日、本好きの知人と新橋のバーで語らっていたとき、本に関するわたしの神経質な一面を指摘され、妙に戸惑うことがあった。「神経質」という気質とは最も縁遠いところにいることを自他ともに認めているだけに、その小さな指摘がひっかかってどうしようもない。確かに、わたしは「そのこと」を常に気にしていたし、「それ」が生理的に嫌で意識的に避けていたことも事実だ。手元に所蔵する本が「そうである」ことを許すことができず、つい先日も、レーニン著・角田安正訳の『帝国主義論』(光文社古典新訳文庫、二〇〇六年)を買うのに、何十軒という本屋を探し歩き、虎ノ門の「書原」でやっと発見し手に入れた。絶版ではない、どこの書店の棚にも同じ本はまだあるのに、である(もちろん、岩波文庫版のレーニン著・宇高基輔訳の『帝国主義』のことではない!)。
 この文章の題名と併せて、ここまで読んで何のことを言っているか察しがついた読者諸氏はかなり勘がいい。というより、わたしとこの気質を共有している可能性が高い。
 小口、「こぐち」と読む。本を裁断した断面の部分をこう呼ぶ。特に本を立てたときに地面に接する部分を「地」、反対に本の天頂部を「天」という。文庫や新書の多くは、印刷の後、天地を含めた小口部分を裁断し、本の体裁となる。ただ、一部の文庫や新書のうち天の部分を裁断していないものもある(たとえば、返品を念頭に置いていない岩波文庫と岩波新書はこれである)。
 問題は、この小口部分の「手触り」にある。書物を手にし、ページを捲るときに必然的に触れることになる小口。この瞬間の手触りは、内容を示唆する美しい装丁や、紙やインクが発するほのかな匂いとともに、書物が人間の諸感覚に訴える演出の重要な一要素であり、豊かな読書へ誘う官能的なワン・シーンであるはずなのだ。
 いま、この知的な世界へと誘う不可欠な演出の破壊が、あまりにも安易に行われている。
 近くの書店で、ちょっと前に刊行された文庫なり新書を手に取って、その断面に目をやってほしい。そこには、鋭利な刃物で裁断されたのではなく、細かい筋が縦横に走った奇妙な断面があらわになっている。開いたり捲ったりしてみるとバサバサとしていて、刊行されたばかりの本とは違う感触を確認できる筈だ。文庫や新書が大量に溢れている昨今の出版業界。ベストセラーになるのはこのうちほんのわずかである。ロングセラーは今やなく、刊行されるそばから忘れられていく。棚の本の多くは、新刊と入れ替えに返品され、再度流通にのせられる。出版社と書店を行き来するうちにやがて本は汚れてくる。特に小口部分は汚れが入りやすい。
 そこで行われるのが「小口研磨」である。なんてことはない、汚れた部分を紙ヤスリなどで削り落とすだけである。あの奇妙な細かい傷はヤスリで削った跡なのだ。最初は手作業でやっていたようだが、最近では専用の機械もあるらしい。古書店のブックオフではこれを大量に導入しているというのを聞いたことがある。
 自転車操業と企画過多がもたらす多品種生産と大量返品、まさに小口研磨は現代出版流通の徒花である。原因は読者の側にも出版流通の側にもある。需要のつかない商品の延命を商品それ自体を傷つけることによって行うパラドクス。いつからわれわれは本を大切にしなくなったのだろうか。ベンヤミンではないが、本からアウラが失われて久しい。
 自称「神経質」ではないわたしを「神経質」たらしめる原因の一端は、間違いなくここにあり、「小口研磨」本に対する(もしかしたら)たった一人の不買運動(ボイコット)はわたしのささやかな抵抗である。
(慶應義塾大学書道会機関誌「硯洗」より)

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